あれだけのこと






包帯に滲む赤色と、その下にあるであろう空洞を思い描き、白蘭はハルの顎を持ち上げた。
「こんな事をしても無駄ですよ」
毅然とした態度で、ハルがその手を撥ね付ける。
「そう?」
打たれた手の甲をそのままに、白蘭は面白そうに目を細めて顔を近付けた。
「はい。ハルが好きなのは、あの人だけですから」
「君を見もしない男なのに?」
懲りずに伸ばされる指先の気配を察し、ハルは眉を顰めると僅かに身じろいだ。
しかしその身体はほんの少し真後ろへとズレただけで、直ぐにソファの背凭れへと行き当たってしまう。
追い詰めた獲物を捕らえるかの如く、白蘭は再びハルの顎先へと指を添える。
「彼には、他に気になる子がいるのに?」
「それが何か?」
畳み掛ける様にして間近で囁かれる台詞に、ハルはわざと唇の端を持ち上げて見せた。
こんな男の言う事に、耳を貸す必要も理由も無い。
それが例え本当の事であったとしても、違うとしても、自分は自分の信じる道を行くと決めたのだから。
だから、何を言われても平気だ。
平気なのだ。
そう自分に言い聞かせながら不敵な笑みを湛えたハルを見下ろし、それでも白蘭は囁くのを止めない。
「愛されなくても平気なんだ?強いね、ハルちゃん」
「貴方に名前で呼ばれる謂れはありません」
「苗字で呼ぶの、よそよそしくて嫌なんだ」
「他人ですし、敵でもありますから、何の問題も無いと思いますが?」
顔を振って無理に相手の指先を外すと、ハルはそのまま顔を背けて口を閉じた。
目の奥がやけに疼く。
在るべき筈の眼球が無いこの状態では無理も無い事だが、今の身体には軽い麻酔が施されている。
そのお陰で痛みこそ無いものの、動きは鈍く、まともに立ち上がる事すら出来ない。
だからこそ白蘭の下から抜け出す事も出来ず、こうして好き勝手されている状態なのだが。
「うーん。手強いなぁ。僕としては、君と仲良く出来たら嬉しいんだけどね」
「それは無理な相談です」
ジクジクと痛み始めた目元を包帯の上から押さえ、ハルは返答しながらも小さく呻いた。
麻酔が切れ始めているのだろうか。
それとも、この男の放つ毒気に当てられているのか。
そのどちらも正解な気がして、ますます痛みが増して行く。
「痛む?」
妙に甘く聞こえる男の声が、何もかもを見透かしている様で、酷く癪に障った。
「平気です。…取引は終了しましたので、これで帰らせて頂きます」
白蘭を押し退ける様にして立ち上がり、しかし未だ抜け切らぬ麻酔のせいでグラリと傾ぐ身体が、自然とソファの上へと逆戻りする。
ボスンと空気の抜ける音に、白蘭の笑い声が混じって聞こえた。
「無理しない方が良い。麻酔が完全に切れるまで、休んで行きなよ。どうせなら、もう一晩ぐらい泊まってくれても構わないし」
「結構です…っ、そこ、退いて下さい!」
覆い被さられる気配に気が焦り、ハルの話し方に乱れが生じる。
先程までの完璧な態度は、今や脆くも崩れ去りつつあった。
そんな彼女の反応が、愉快で堪らないのだろう。
白蘭は態とハルの指先に軽い口付けを落とし、嫌悪に染まる表情にひっそりと目を細めた。
「でも、考えたでしょ」
「…何を、ですか?」
「綱吉君が、君の事を心配してくれるって。他の子の事なんて目に入らなくなるぐらい、君の事だけを考えてくれるって、さ」
嘲笑めいた口調に、ハルは押し黙る。
噛み締めた奥歯が、ギリリと不快な音を立てて軋んだ。
「だから、君はこうも簡単に目を差し出した。僕との取引に応じた。そうじゃない?」
「目を渡せば此処から解放してくれると、貴方が言い出した事でしょう!」
「うん。だって、ハルの目が欲しかったからね。まさか承諾してくれるなんて思わなかったから、驚いちゃった」
「それは……」
後に続く言葉が見つからず、沈黙を余儀無くされるハルへ、白蘭はスルリとその頬を撫で上げた。
「泊まって行く?」
恐らくは満面の笑みを湛えているであろう相手に、ハルは口惜しそうに頭を振る。
「いいえ」
キッパリとした答えに予想はしていたらしく、白蘭は軽く肩を竦めると今度は素直にハルの上から退いた。
「それじゃ、せめて途中まで送らせるよ。その状態じゃ、まともに歩けないだろうし」
「く…」
未だ感覚の戻らない身体が、酷くもどかしい。
早くこの男の目の届かない場所へと赴きたいというのに、足に色濃く残っているらしい麻酔のせいで、思う様に歩く事が出来ないでいる。
ミルフィオーレの人間に支えられて部屋を出る際、背後に白蘭の声が投げられた。

「使えるものは、何でも最大限に使っておいた方がお得だよ。ハルちゃん」


その言葉が、今でも脳裏にこびり付いて離れない。
一体彼は何処まで此方の心情を把握していたのだろう。
目の前で息を呑む彼の気配に、ハルは己の醜さを嫌という程見せ付けられる。
「ハル…」
途方に暮れた様な声音と、抱き締められる感覚。
そして、肩に落ちる熱い雫。
それら全てが、ハルに心の底から震える程の歓喜を齎した。
「御免。…御免、ハル。君をこんな目に合わせてしまって…」
次から次に落ちて来る涙が、ハルから徐々に思考力を奪って行く。
あぁ…どうしよう。
どうしよう、どうしよう。
凄く、凄く嬉しい。
「ツナさん」
ゆっくりと綱吉の背中に回した両手が、熱を持っているのが自分でも解った。
「ハルは、大丈夫ですよ」
呟きは、綱吉の嗚咽に掻き消されて消える。
薄く笑った白蘭の顔が、閉じた瞼の裏に浮かび上がって揺らいだ。






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