ありふれた日常で







「あー、その。何だ…ホラ、あれだ」
獄寺は言葉を濁していた。
目の前には、此方を厳しい目で睨んでいる女性が一人。
彼の目は不自然に女性から逸らされ、明後日の方角へと泳ぎ始めた。
「あれじゃ解りませんよ」
ずいっと目の前に回りこまれ、無理矢理に視線を合わせられる。
これは完全に怒っている証だ。
「だからだな、えー…」
冷や汗を掻きつつ、頭の中で必死に上手い言い訳を探す。
脳味噌がそれこそ引っ繰り返る勢いで考えてみたものの、やはり何も思いつかない。
元々嘘が苦手な性質だ、無理もない。
「悪かった」
結局獄寺は、女性に頭を下げるしかなかった。
「………」
むぅ、と不満気な顔をした女性は、しかしそれ以上獄寺を責める事は出来なくなる。
「無闇に喧嘩しないって、言ったじゃないですか…」
拗ねた口調でボソリと呟き、女性は俯いた。
「ハル…」
獄寺は、悲しそうに視線を地に落とした彼女の名を呼んだ。
ハルの返事はない。
「御免…」
片手を伸ばして、そろそろと頭を撫でる。
「御免な」
言葉を繰り返すと、ふとハルの目元が和らいだのが解った。
「本当に、心配するんですよ?」
チラリと此方を見上げてくる顔には、まだ少女の様なあどけなさが残されている。
10年前と同じ真摯な瞳の色に、獄寺はハルを両手で抱きしめた。
「…こんなに怪我ばっかして。その内、血が足りなくなっちゃいますよ」
ハルの右手が獄寺の左の頬を撫でる。
先日傷つけられたばかりの、未だ癒えない切り傷が其処にあった。
綱吉率いるボンゴレファミリーの一員となった日から、ファミリー全体が常に闘争に明け暮れてはいたが、獄寺はそのトップを行っていた。
元々の血気盛んな性格が災いして、自分から揉め事を起こしてしまった事もある。
それでも最近は、大分落ち着いてきていたのだが…。
「無闇に喧嘩はしないで下さい。ツナさんにも迷惑がかかります」
目を合わせ、キッパリと下された言葉には、本物の心配の色が滲んでいた。
綱吉の名はあくまで建前だと、嫌でも解ってしまう。
「気を付ける。…だから、泣くな」
ぼろぼろと、ハルの瞳から溢れ出ている涙を指先で拭い取る。
「前も、それ…っ。言いました、よ」
ハルはしゃくり上げながら獄寺から離れると、服の袖でごしごしと目元を擦った。
「悪ぃ」
「知りませんっ」
泣いた事が恥ずかしかったらしく、ふいっとそっぽを向かれる。
何処か拗ねた様なその表情が愛しく、獄寺は腕を伸ばすとハルを背後から抱き込んだ。
「…ぅー、もう…っ」
腕の中で唸る彼女は、耳まで赤くしている。
あくまでこっちを見ようとしない…もとい、見る事が出来ない理由が解るので、抱き込む腕に力を込めて逃がさない様にする。
「獄寺さんの馬鹿ー」
ハルの声は既に怒ってはいない。
「今度怪我してきても、ハルは知りませんからねっ。出血多量で倒れても放っておきますから、そのつもりでいて下さい」
「……」
「何ですか」
「んな事、出来ねー癖に…」
ボソリと呟けば、ハルが凄い形相で此方を振り返った。
「あー、嘘嘘。肝に免じておくから、な?」
ハルの頬にそっと軽いキスをする。
「むむ…。それなら、良いです」
何処かまだ納得のいかないといった表情を残してはいるものの、ハルの機嫌はどうやら直ったようだ。
10日ぶりに会ったのだから、出来れば仲良くしていたい。
獄寺はホッと安堵の息を吐いた。
腕の中にハルを閉じ込めたまま、その温もりをじっくりと堪能する。
最近バタバタしていたせいか、こうしてハルを抱きしめるのもかなり久しぶりだ。
背中に回ったハルの腕も、僅かに力がこもっている。
もう何度も抱きしめた身体なのに、回数を重ねる毎に愛しさが増している様に思えるのは、果たして自分の気のせいなのだろうか。
「ハル、この後暇か?」
「はひ?」
突然の質問に、面食らった表情が此方を向く。
「いや、その…暇なら、どっか行かねーか?」
デートという単語を出すのは未だに気恥ずかしく、言葉を濁して誘いをかける。
少しぶっきら棒な口調になったが、ハルはクスリと笑って頷いた。
「暇ですよ。それじゃ、ちょっと鞄取ってきますね」
スルリと腕から抜け出したハルは、そのまま隣室へと消えて行った。
その後姿を見送り、重力に任せてソファへと崩れ落ちる。
「あー、やべぇ」
両腕に残る温もりに顔がにやけそうになり、何度か頬を叩いて気を引き締める。
「あいつって凄ぇな…」
先程までピリピリしていた感覚が、ハルに会った瞬間に変わってしまった。
穏やかな日常のそれに戻ったと言った方が良いかもしれない。
マフィアという組織に身を置く今、そういった時間を過ごせるのは何にも勝る幸せだ。
そしてそんな時間を齎してくれる、大切な恋人が傍に居る自分は相当な幸せ者なのだろう。
「獄寺さん、用意出来ましたよー」
鞄を手に戻ってきたハルを見つめると、獄寺は笑いながら立ち上がる。
「ま、本人にはぜってー言えねーけど」
「…?何か言いましたか?」
「いや、何でも。行こうぜ」
優しい空気に満ちた室内に一度視線を遣り、獄寺はハルを伴って部屋を後にした。







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