忘却という逃避






しっかりと繋いだ手が軽くて―――余りにも軽くて、振り返るのがとても怖かった。
先程までは確かに感じられた、彼の人の重さが今は無い。
あるのは手の平の感触だけ。
ヌラリと指先を滴る何かと、鼻を突く異臭に立ち止まる。
途端、繋いだ手が急激に重さを増して垂れ下がった。
「………っ」
背中がまるで、冷水でも浴びせられたかの様に冷たく強張る。
「もう、鬼ごっこはお終い?」
クスクスと笑う、楽しそうな声。
背後から掛けられたそれに、しかしハルは前方を向いたまま。
「びゃくら、さ…」
舌が上手く回らない。
頭も上手く回らない。
先程から同じ疑問ばかりが、グルグルグルグルと脳内を旋回している。

この手の感触は異常だ。
これではまるで、――そう、手首から先が無いみたいじゃないか。

「二人で仲良く逃亡なんて、ズルイんじゃない?僕も混ぜてよ」
「どう、して此処に?」
無理だ。
どうしたって振り返れない。
「スパナ君が、僕から大切なものを奪っていくのが見えたから」
「何言ってるんですか。スパナさんは何も奪ってなんかいませんよ」
「本気で言ってる?ハル」
笑顔に隠れた冷たい怒気が、背中にヒシヒシと伝わって来る。
相手の顔が見えないからこそ、余計に全身の感覚器という感覚器が鋭敏になって、白蘭から放たれるそれを受け止めてしまう。
歯の根が合わない程、カタカタと全身が小刻みに震えていた。
「人のものを盗むのは悪い事だよね。だから、ちょっとお仕置き」
「何を…一体何をしたんですか」
「振り返って自分の目で確かめて御覧?」
「………」
重い右手。
力の抜け落ちた、反応の無い指先。
そして鼻から入り込んで来る、不快な鉄錆の味。
冷たい汗が、じんわりとハルの背中を覆い尽くして行く。
「ほら、ハル」
白蘭の声が、警鐘をガンガンと鳴らし続けている脳裏に染み込んで来る。
早く振り返れと、ゆったりとした口調で急かして来る。
「スパナ君がどうなっているのか、知りたいんでしょ?」
それなら、振り返ってみないと。
言外の催促に、ハルは両目を閉じてその場に立ち尽くす。
良く口が回る白蘭とは対照的に、スパナは無言のままだ。
誰とも喋る気が無いのか、それとも喋りたくとも喋れない様な状態なのか。
怖い。
とても、怖い。
何が怖いのか、それを考える事すら、恐怖の対象にしかなり得なかった。
「………」
やがて開かれた両目と、スローモーションの如き遅さで振り返る身体が、自分の意思を離れて勝手に動き出す。
そして目の前に広がる光景に、ハルの口から絶叫が迸った。


「ハル」
静かな声に、悲鳴が止む。
「どうしたの、悪い夢でも見たのかな」
優しく頭を撫でる手の平と声に、ハルはゆっくりと瞼を開いた。
視界一杯に映った顔に、思わず両手を伸ばして抱き付く。
「白蘭、さん…っ」
「うん。大丈夫だよ、僕は此処に居るから」
震えながらも必死でしがみ付いてくる身体を片手で受け止め、白蘭はあやすように背中をポンポンと叩く。
「ずっと傍に居てあげる。だからもう、何も怖い事はないんだよ。ハル」
言い聞かせる様に、言い含める様に、白蘭は言葉を紡ぐ。
刷り込みにも似たその囁きが、ハルの思考を徐々に麻痺させていく。
「…怖い夢を、見たんです」
「うん」
「凄く怖くて…ハルの大事な、大事な何かが…壊れて………」
思い出したくても思い出せず、思い出そうとしても思い出したくなくなってしまう。
奇妙な恐怖と喪失感が、ハルの麻痺し掛かった脳裏を揺さぶり続ける。
「夢だよ」
「…ゆ、め…」
「そう、夢。怖い怖い、ただの夢」
先程よりも力を増した囁きに、ハルの瞳がとろんと揺れる。
恐怖がストンと頭から抜け落ちる感覚に、紅く色付いた唇から小さく安堵の息が漏れた。
「だから、忘れて良いんだよ。全部、何もかも」
そんな唇へそっと触れるだけのキスを落とし、白蘭はハルの頭を再び枕の上へと横たえる。
「後は僕に任せてお休み、ハル。今度は良い夢を――…」
白蘭の言葉は途中から聞こえなくなり、やがて静かな寝息がハルの全身を満たして行く。
完全に眠りに落ちる寸前、脳裏を掠めた一人の青年の姿に、微かな疑問を抱きながら。







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