永遠に幸あれ!
「結婚しようか」
スパナの唐突な台詞に、アイロンを掛けていたハルの手はピタリと静止した。
「………」
「………」
無言の時間が数十秒経過した所で、ジジジと布の焦げる臭いが辺りに充満を始める。
「ハル、火事になる」
「はひ!?」
スパナの手がアイロンを取り上げて初めて、ハルは手元に視線を落とした。
「あぁっ、ちょっと焼けてしまいました…」
「ん。このぐらいなら別に平気。どうせ室内着だし」
ストンとアイロンを台の上へ戻し、スパナは小さく笑って背を向ける。
そうして彼は再び、故障した機械の修理に取り掛かり始めてしまい、部屋の中には何某かの部品を嵌め込む音しか聞こえなくなった。
「………」
もしかして自分は寝惚けていたのだろうか。
思わずそう考えてしまう位、スパナは普段通りの態度で作業に当たっている。
カチャカチャと静かで手際の良い音を聞きながら、ハルはアイロンの電源を抜くと首を捻った。
「スパナさん」
「ん?」
「さっき――…」
「?」
「………いえ、何でもないです」
不思議そうな表情が向けられ、やはりあれは幻聴だったのだと、ハルは焦げ目の付いた衣装を畳みながら笑って誤魔化す。
昼間から何を呆けているのだろう、自分は。
ここ最近、どうも耳の調子がおかしい。
先程の様な幻聴が、この3日の間にもう5〜6回は聞こえている気がする。
一度医者に診て貰うべきだろうか。
「病院は…あ。明日は休診日したっけ。でもシャマルさんなら診て下さるかも?」
ブツブツと呟きつつも真剣に悩み始めるハルへ、幻聴のみならず、今度は幻覚までもが襲い掛かって来た。
何時の間にか近くまで寄って来たスパナの腕が、ハルの身体を優しく、けれどしっかりと抱え込む。
スパナの独特な香りが鼻を擽り、ハルの思考は再度一時停止の状態へと追い込まれた。
「はひ?」
間の抜けた声しか上げられず、抱き締められた格好のままで後ろを振り返る。
想像以上にスパナの顔が間近にあり、ハルが思わず息を呑んだその瞬間、互いの目線がしっかりと絡み合う。
その質量がやけにリアルで、それが混乱に拍車を掛けた。
「はひー。とうとう幻覚ならぬ幻触まで伝わって来る様に…!」
「幻覚?」
「だって、スパナさんがこんな事してくれる筈ありませんし」
「………何でそう思う?」
後僅か数センチ程近付けば、唇が触れ合いそうな程の距離感に、堪らずハルの目が伏せられる。
何と言う幻覚だ。
このままでは心臓が保ちそうにない。
ぐぐぐっと両手を相手の胸に置いて突っぱね、ハルは無理矢理に身体を引き剥がそうと試みる。
しかし、スパナの腕は全く緩まない。
やけに生々しく、そして力強い抱擁だった。
「ハル?」
「その…ハルが一方的にスパナさんの事を好きになって、勝手に押し掛けてるだけですしっ。ご迷惑なのは解ってるんです、でも好きだから、それで少しでもお手伝い出来たらって思って…それで」
早口で捲し立てる少女に、スパナは小さく溜息を吐いた。
その吐息でさえハッキリと肌で感じ取れ、ハルは気まずそうに視線を逸らす。
「ウチはどうでも良いヤツに、自分の服の洗濯を任せたりしない」
「は、ひ…?」
「もしかしてこの数日間返事が無かったのって、ウチの言葉全部幻聴だと思ってたの?」
「え、違うんですか?」
「………あぁ、やっぱり」
深い深い溜息が、またしてもスパナの口から漏れる。
「スパ――…」
「ウチは、ハルが好きだよ」
「…っ」
間近からの告白に、ハルの両目が限界まで見開かれる。
「だから、結婚しよう」
「………」
「これは幻覚でも、幻聴でもない。ウチの、本当の気持ちだから」
目が零れ落ちるのではないかと思われる程、ハルは視力全開でスパナを見つめていた。
口がパクパクと開閉しているのは、恐らく驚き過ぎて言葉が出て来ないせいだろう。
「イヤ?」
スパナの視線が、真っ直ぐにハルを射抜く。
普段と余り変わらない表情ながらも、その視線に篭った真摯な熱に、ハルは思わず胸を押さえた。
「うぅ、卑怯です…」
漸く搾り出した声は微かに震えていて、自分でも聞き取り難い。
「卑怯?」
心臓が激しく鼓動を繰り返しているのが解った。
余りにドクドクと心音が大きく鳴り響くので、もしかしたらスパナにまでこの音が届いているかもしれない等と、そんな馬鹿げた考えまで浮かんで来てしまう。
「好きな人にそんな事言われて、断れる訳がないでしょう!」
ヤケクソ混じりに叫んだ台詞に、スパナの顔がポカンとしたものへ変化する。
次いで小さく吹き出され、ハルの顔は茹蛸の如き赤色に染まった。
「それはオーケーって事?」
俯くハルを覗き込み、スパナは笑いを含んだままの眼差しで尋ねる。
耳まで朱に染めた彼女の顔を見れば、返答は一目瞭然だった。