げに恐ろしきは鬼よりも
「鬼ごっこをしようか」
雲雀は薄っすらと笑みを浮かべたまま、そんな言葉を口にした。
一つの提案だと、彼は扉を指先で示す。
「君が最後まで逃げる事が出来たら君の勝ち。その時は僕はもう二度と君には近付かない。けれど、途中で僕に捕まったら僕の勝ち。その時は――」
一瞬言葉を切ったのは、単に効果を増幅させる為だ。
そしてそれは絶大な響きとなってハルの耳に染み込む。
「君は僕の物になる」
簡単だよね、と雲雀の目が笑っている。
この並盛で最強と呼ばれる少年が、ハルを見据えて目を細めている。
それは宛ら肉食獣の眼光と何ら変わる事が無い。
思わず見とれてしまう位、この猛々しい生き物は生気に満ち溢れていた。
「解りました」
今のハルには、それ以外の返事は許されていない。
拒否権等、最初からあろう筈も無いのだ。
「それじゃ…」
組んでいた足を解き、雲雀はソファから立ち上がる。
「スタート」
カウントダウン開始の合図に、ハルは全力で応接室から駆け出した。
猶予は5分。
それまでに、1メートルでも遠く離れなければ。
あの少年の足の速さなど知る由も無いが、自信満々な表情からしても、遅いとは思えない。
もう何分経っただろう。
彼はまだ応接室に居るだろうか。
タイムリミットの1時間を過ぎるまで、何としてでも彼から逃げ果せなければならない。
捕まったら最後だ。
そうなれば、これから先にあるハルの未来は、全て雲雀の手中に握られてしまう。
それだけは御免だった。
ハルには自分なりの未来設計がある。
好きな人と結ばれて結婚し、子供を沢山産んで幸せな家庭を築くという、そんな夢があるのだ。
端から見れば平凡でつまらない人生かもしれない。
だが、それが小さな頃からのハルの夢だった。
「……は、…は、ぁっ…」
人気の無い夕闇に沈んだ廊下が、遠く長く、真っ直ぐに伸びている。
幾つもの教室を過ぎたところで、唐突に息が切れ始めた。
普段の自分であれば、このぐらいの距離を走ったところで息切れを起こす事は絶対に無い。
「ど…、して……っ」
途端に鈍くなる足取りに、ハルは悔しそうに歯噛みした。
こんな時だからこそ持続して欲しい体力だというのに、切実な願いとは裏腹に速力は徐々に落ちて行く。
気が焦れば焦る程に足は勝手にもつれ、一寸でも気を抜けば廊下へと倒れ込みそうになる。
どうにもならない自分の身体に、ハルは盛大に顔を歪めて近くの教室に飛び込んだ。
その瞬間、壁に掛かった時計が視界に映る。
カチコチと確実に時を刻み続けるそれは、既に5分が経過している事を告げていた。
「!」
ハルは反射的に扉を閉めると、開かない様に自分の体重を掛けて出入り口を塞ぐ。
1時間…?
彼を相手にして、1時間も保つものか。
逃げる5分はあんなにも短く、発見を待つ身となった今の1分はこんなにも長いというのに。
ドクドクと心臓を流れる血の音が耳につく。
まるで身体全体が耳にでもなったかの様だ。
やがて聞こえて来る靴音が押さえたままの扉の前で止まるまで、ハルは一人恐怖に震える事も出来ずに、目を見開いて時計を凝視していた。