ごめん〜君に言えなかったことがある〜
何時も何時も、一体どれだけ君に迷惑を掛けた事か。
初めて会った時から今の今まで、指折り数えてみても足りないぐらいだ。
怪我をして入院した時。
自棄になって荒れた時。
落ち込んで項垂れた時。
何時も何時も、君を心配させてしまった。
怒らせた事も、泣かせてしまった事もある。
そしてその度に、口を噤む俺が居た。
あれからもうどれぐらいの年月が経っただろう。
今までの人生を振り返ってみると、まるで昨日の事の様に次々と記憶が鮮明に蘇って来た。
本当に些細な日常的な事が、ハルとの大切な思い出ばかりが、脳裏に浮かんでは流れて行く。
その中で、どうしても言えなかった言葉。
素直になれなかった子供の俺が、滅多に口に出さなかった三文字のそれ。
ハルの気持ちが解っていて、素直になれなくて。
そうやって心の奥底に、少しずつ溜め込んでいったもの。
「ハル」
今なら言えるだろうか。
共に縁側に腰を下ろして、湯飲みを片手に月を見上げている今ならば。
「はひ、何ですか?」
不思議そうな表情と共に、皺の刻まれた顔が此方を向く。
年を取っても尚変わらない口癖に、思わず声を立てて笑ってしまう。
「…人の顔を見て笑うなんて、いい趣味ではありませんよ」
機嫌を損ねた様な口調、けれどその目元は穏やかに微笑んでいる。
「違うよ。ハルは本当に、昔と変わらないと思ってね」
「まぁ…。それは、どういう意味に取ればいいのかしら」
クスクスと笑う仕草に、思わず目を細めて見入る。
「そのままの意味で」
中身が未だ半分残っている湯飲みをゆっくりとお盆に乗せると、冷たい木の床に置かれたハルの片手に自分の手の平を重ねた。
少し骨張った、細く小さな左手。
愛しいそれを優しく包み込み、視線を人生の伴侶へと注ぐ。
「ハル。俺達が出会った頃の事、覚えてるかい?」
「えぇ、覚えてますとも。ハルはあの頃からずっと、ツナさん一筋でしたから。…あぁ、あれからもう60年が過ぎたのですね…」
ハルの目がふっと懐かし気に和む。
その表情に、同意する様に一つ頷いた。
「そうだな…。60年だったか」
大変な事も多かったけれど、幸せな人生だったと思う。
友人や仲間に囲まれて騒いだ日々。
リボーンとの修行に明け暮れ、山本達と遊んだあの時間。
そして何より、ハルと出会い、互いに恋をした瞬間。
全てが懐かしく、掛け替えの無い宝物の記憶だ。
きっとそれはハルも同じで、彼女の表情にハッキリと表れている。
「皆さんは、お元気でしょうか」
「元気だと思うよ。獄寺君からは、つい最近文も貰ったばかりだし。山本は、久しぶりに孫の腕前を見てくるって東京に行ったけど…」
「そういえば、山本さんのお孫さんも、お寿司屋さんを営んでいらっしゃるのでしたね」
「そうそう。結構評判があるみたいだよ」
「今度、私達もお邪魔しに行きましょうか」
「そうだね。次の週末にでも…」
他愛ない会話の合間に、ふと思い出す。
昔もこうして、旅行の話をした事があった。
あれは確か、付き合い始めて1年が経つか経たないか、そのぐらいの頃だったと思う。
指きりまでした約束は結局俺の都合で果たされず、けれどハルはそれを咎める事はしなかった。
「ツナさん、どうかしましたか?」
急に月を見上げた俺に、ハルが声を掛ける。
「うん…」
またしても言わなくてはならない事が一つ出来た。
この調子だと、まだまだありそうだ。
長い人生の中で全てを思い出す事なんて出来ないけれど、それでも少しでも多く謝っておきたい。
けれど俺が口を開くその前に、ハルが先に口を開いていた。
「あぁ、そうそう。最近は京子ちゃんからもお便りがあったんですよ」
「ん?」
出鼻を挫かれて聞き返すしかなかった俺に、ハルがポンと右手で自分の膝を叩く。
左手は俺の手の中にあるまま、じっと大人しく握られている。
「来月末ぐらいに、三人目のお孫さんが生まれる予定らしいんです。今度は男の子だとか…」
我が事の様に喜ぶハルへ、俺もまた微笑んでいた。
「それは御目出度いな。お祝い、送らないとだね」
「えぇ、何が良いでしょう」
「そうだなぁ…」
思いを巡らせると、古い記憶の一つがふと頭に浮かんだ。
それは初めてのデートの時の事だった。
ハルの誕生日が近いからと、ハルの欲しい物を探してデパートに出掛けて行ったあの日。
手も繋げない程ガチガチに緊張して、結局は買い物も出来ずに直ぐに家に帰ってしまった。
ハルにとっては恐らく散々であっただろう日。
これもまだ、ろくに謝った事が無い。
「ハ…」
「やっぱり、男の子だから玩具が良いかしら…」
出掛かった俺の呼び掛けに気付かなかったのか、ハルは右手を自分の頬へと当て、ほぅと小さく息を吐いた。
「そ、そうだな…。今度買いに行こうか」
「そうしましょうか」
のんびりとした仕草でハルが頷く。
またしても言葉を続けられなかった自分に、密かに落ち込みそうになる。
タイミングが悪いのだろうか、俺は…。
けれどこのままでは、ズルズルと引きずるだけで一生言えない気がしてしまう。
「ハル」
ハルの手を握ったまま身体ごと彼女へ向き直ると、澄んだ光を湛えた目が皺と共に小さく瞬いた。
「俺は、君にずっと言いたい事があったんだ…」
ハルの目を見つめる。
昔と変わらない、綺麗な視線が俺の視線とぶつかる。
そして、ハルはふわりと笑った。
伸ばされた右手の人差し指が、俺の薄く開かれた唇に当てられる。
その瞬間、言葉は全てハルへと吸い込まれて行く。
「良いんですよ」
優しい声音。
たったそれだけの仕草で、口にしなかった言葉をハルは受け取ってしまった。
「………うん」
漸く俺は理解した。
俺が謝罪しようとした記憶も含め、全てが愛しいと思えるから。
だから、謝る必要は無いのだと。
笑ったままのハルの目はそう語っていた。
…ずっとずっと、君に言えなかった言葉がある。
けれど、それはどうやらこの先も言えそうにないらしい。
ハルの両手を取りながら、俺は改めて胸に染みる幸せを噛みしめていた。
*シナプス様、企画に参加させて下さり有難う御座いました!!
*そして読んで下さった方々にも深い感謝を…。