始まるは、此処からの軌跡











ダンッ、と大きな音が空間に響いた。
壁に手を付いたまま、にっこりとした笑みを浮かべているのは、本当にあのカイトなのだろうかと思う。
カイトの身体と壁とに挟まれ、完全に逃げ場を失くしてしまったメイコは、目を瞬かせてカイトを見上げた。
何時もの笑顔なのに、ゾクリとした震えが身体を走る。
脳髄から爪先まで一直線に降りて行ったそれは、俗に恐怖と呼ばれる感情ではないだろうか。
生まれて初めて感じる戦慄に、メイコは微動だに出来なかった。
ただじっと、間近にあるカイトの顔を見上げる事しか。
「ねぇ」
引き結ばれていた口から漏れた言葉は冷たい声で、普段のあの優しい口調からは掛け離れていた。
「どうして、そう俺の神経を逆撫でする様な事が出来るの?」
とてもとても不思議そうな表情で、口付けが出来そうな距離感にある顔をカイトは見ている。
「何を言ってるの…?どきなさい」
キッ、とカイトの顔を見上げて強気な口調で威勢を張る。
そんなメイコに小さく笑うと、カイトはメイコの腕を不意に引っ張った。
力強い手に抗う術も無く、メイコはベッドの上に放り出されてしまう。
ボスンと空気が抜ける音とシーツの感触に慌てて身体を起こそうとするが、それより早くカイトの身体が圧し掛かってくる。
押し退け様とした手を逆に掴まれ、シーツの波間へと強く押え付けられる。
「や、めて…カイト!」
痺れるぐらいのその痛みに、メイコは思わず泣きそうになった。
こんなカイトは知らない。
こんなカイトは解らない。
どうしてそんなに怒っているのかすらも、理解出来なかった。
ギリリと捻りあげられた手が、痛みを訴えて悲鳴を上げている。
一体何処にこんな力が備わっていたのだろう。
普段一人では何も出来ないぐらい、あんなにも弱かったというのに。
…否、ひょっとすると隠し持っていただけなのだろうか。
ただ表に出さなかっただけなのだろうか。
反撃出来なかったのでは無く、反撃しなかっただけの事。
それ程の余裕を、この男は持っていたというのか。
「メイコ。俺はね、ずっと我慢してたんだよ」
低い低い声に、メイコの肩が揺れる。
ゾッとするぐらいの冷気が、二人の間に流れていた。
「本当は、ずっと…こうしたかった。メイコに触れてみたかったんだ」
スルリと、両脚の間にカイトの身体が割り込んで来る。
短いミニスカートがその反動で上部へとずれる。
何時下着が見えてもおかしく無い格好に、メイコは慌てて身を捩った。
「やめ…やめなさい!カイト!!」
悲鳴と言ってもおかしくない様な声に、カイトの目が細められる。
「やめてあげないよ。だって、メイコが悪いんだ」
耳元で囁かれ、メイコの背筋をゾクリとした電流が駆け抜ける。
力が抜けて行く感覚に慌てて頭を振り、自分を組み敷いている男を睨み付ける。
「メイコが悪いんだ」
カイトは同じ言葉を繰り返し、メイコの首筋に唇を寄せた。
ザワリ、と恐怖で全身の肌が泡立つ。
「い…やっ」
「どうして?」
全身で拒絶を露にするメイコに、カイトの声が一段と低くなる。
凍えてしまうのではないかと思えてくる、絶対零度の声の温度。
普段カイトが歌う時に感じる、暖かさは其処に欠片も見出せない。
「どうして、俺じゃ駄目なの」
「カイト…」
感情の無い顔で呟く相手に、メイコの目が見開かれる。
「あいつなら良いの?あいつなら、メイコは喜んで受け入れるの?何をされても許せる?」
矢継ぎ早の質問に困惑の表情を乗せて、メイコは口を開いた。
「誰の事言って――」
「レンだよ!」
血を吐く様な叫びを発し、勢いそのままにカイトはメイコの上から退いて背を向ける。
「カイト…」
僅かに丸まった背中が震えているのを見て取り、メイコは上半身を起こした。
太股が露になっている事に気付き、乱れた衣服を簡単に直すと、目の前で縮こまる、震えの止まらない背中へとそっと片手を伸ばす。
「…レンには、メイコからキスした。あんなに笑って…俺には、一度だってしてくれなかったのに」
指先が肩に触れる寸前で、背中と同じく震える声が耳に届く。
もしかして、泣いているのだろうか。
「キスって…頬に軽くしただけじゃない。リンやミクにだってしたわよ?」
「レンは別だよ。だってあいつは…」
カイトは一向に此方を向こうとしない。
パタパタと何かが落ちる音が聞こえ、メイコは溜息を吐いた。
まるで子供だ。
癇癪を起こして乱暴を働いて、そして今は怖くて泣いている。
下手をすれば、ミク…いや、レンやリンより子供に思えてしまう。
こんな子供に一時でも恐怖を覚えたのかと思うと、我ながら情けなくなった。
「あのね」
ポンとカイトの頭を叩き、メイコは隣に腰掛けた。
泣き顔を見られるのが嫌なのか、カイトはメイコを見ようとはせず、俯いたまま顔を背けている。
「こっちを向きなさい」
「無理」
「無理じゃない。向きなさい、カイト」
「やだ」
どうやら今度は駄々っ子モードが発動したらしい。
「カイト」
少し強めの口調で言ってやるも、カイトは相変わらず顔を背けたままで。
「だって、俺メイコに酷い事しそうになった…」
「そうね」
「レンに嫉妬して、それで…」
「ええ」
髪の毛で顔が完全に隠れて、カイトの表情は全く見えない。
それでもしきりに落ちてくる涙で、大体解ってしまう。
外見とは裏腹にカイトが子供のままで育ってしまったのは、恐らく自分のせいでもあるのだろう。
インストールされてからずっと、弟として大事に可愛がって来た。
それが裏目に出てしまった様だ。
けれど、これからはカイトも兄となる。
昨日来たばかりの、ミクやレンやリンの兄とならなければいけないのだ。
兄として、先輩として、彼等を導いてやらねばいけない。
「俺は、メイコが好きなんだ」
気付けば、カイトは顔を上げて真っ直ぐにメイコを見ていた。
その真摯な視線に、知らずメイコの頬が上気する。
先程までは完全に子供の顔だったというのに、今では大人びた男の容貌になっている。
涙の跡が残っているカイトの頬を指先で拭き取ってやりながら、メイコは笑って自分の熱くなった頬を軽く叩いた。
「あんたって、面白い男ね」
「俺は本気だよ?」
ムとした表情で詰め寄るカイトに、メイコは破顔して頷く。
「解ってる、解ってる」
「解ってないよ、メイコは…鈍感だから」
最後の方はボソボソとした声だったので、メイコには聞こえなかった。
「ん?」
「別に、何でもない」
何処か拗ねた様な表情で視線を外したカイトの額に、メイコは軽くキスをした。
「………」
その思いがけない行動に、カイトは固まって目を見開く。
「何て顔してんの。して欲しかったんじゃないの?」
「……うん」
未だ呆然とした顔で頷くカイトを軽く小突く。
「…言っとくけど、さっきの事を許した訳じゃないわよ。次にやったら、今度は遠慮無く殴り飛ばすからね?」
「……解った」
何処か上の空で返事するカイトの頭を「よし、良い子ね」と撫でる。
その完全なる弟扱いに、カイトの口から溜息が漏れた。
「やっぱり、メイコは解ってない…」
小さく呟いた言葉は、またしてもメイコには届かない。
「ほら、そろそろミク達と練習する時間でしょ。行くわよ。あんたも、もうお兄ちゃんになったんだから、しゃんとしないと駄目よ」
ベッドから立ち上がった、今にも部屋から出てしまいそうなメイコの腕を慌てて掴み、引き止める。
「あ、メイコ…」
「何?」
「さっきのキス、出来れば唇にお願いしたいんだけど」
言った瞬間、カイトの頭に鉄拳が飛んで来る。
「馬鹿言ってんじゃないの。ホラ早く来なさい!」
「痛たたた…」
殴られた箇所を押さえ、ヨロヨロと立ち上がった。
メイコの遠慮容赦の無い力に、しかしその事が少しだけ嬉しくなってカイトの口元が緩む。
メイコは今まで、決して本気で殴っては来なかった。
元々家族に甘いらしいメイコは、弟に対しては何時も力の加減をしていたのだ。
それが無くなった意味は…。
「何笑ってんの…カイト、あんたひょっとしてマゾの気があるんじゃないでしょうね…?」
「え、違うよ!?」
慌てるカイトに、メイコの訝し気な視線が突き刺さる。
弁解の言葉を探しながらも、カイトの頬も緩みっ放しだ。
何せ、漸く『可愛い弟』の地位から脱出する事が出来たのだ。
自分でも単純だとは思うが、これが嬉しくない筈が無い。
例えメイコをそうさせた要因が、カイトに兄としての自覚を持たせる為であったとしても。
「メイコ、俺…頑張るから」
「ん、期待してるわ」
ボーカロイド家族全員の集まるフォルダへと移動しながら、メイコは目元を和ませて笑った。




ミク達の頼りになる兄として、そして一人の男として見て貰える様に。
まずは、これが第一歩。







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