惹かれるもの












獲物がナイフにぶち当たる度に、ビリビリとした刺激が手に伝わってくる。
肉の切れる音と血の舞い踊る感触。
そうだ、これこそがオレのいる世界の快楽。
自分の居場所だ。
それは闇の中での楽しみ、陽の当たらない場所での遊戯。
「なぁ、もっと遊ぼうぜ。これで終わりだなんてさ、あんまりにもつまんないじゃん?」
地面に転がる肉塊をグリと靴の先で踏み付ける。
ピクリとも動かないそれが、とうの昔に息を止めてしまっている事は、火を見るよりも明らかだった。
一滴すらも自分の身体に触れなかった、死体の作り出した血の海へと靴を沈め、未だ暖かいそれが冷たくなっていく過程を楽しむ。
じわじわ、じわじわと命の灯火が消えて行くその様相は、まるで神にでもなった気分にさせてくれる。
否、事実死んだ者にとって、自分は紛れも無く神であっただろう。
その命の行方を左右する、気紛れな神として。
「ししっ、今度はもうちょい強い奴だと良いんだけどな」
パシャンと音を立てて靴先を上げると、血の靴跡を残して踵を返す。
もし死体の仲間がこれを見つけたら、簡単に自分を追って来れる様に。
楽に自分を特定出来る目印を後に、そのまま夜の街へと歩き出す。
強い風が街路樹の梢を揺らし、残り少ない枯葉を地に落としているのが目に付いた。
パラリと落ちる葉はまるで、死に行く者の姿そのもので、足元にあったそれを何の躊躇いも無く踏み潰す。
グシャリと靴の下で潰れる音でさえも、人間の肉を踏んだ時の音を全く変わらずに耳に届く。
儚い命というのは、人間であっても木の葉であっても、全く同等な物として存在するらしい。
どちらも等しく生きているのだから、それも当然の事なのかもしれないが。
無残に踏み潰された残骸を見る事も無く、ベルフェゴールは小さく笑った。
全く、おかしくて堪らない。
この自分がそんな事に少しでも想いを馳せた事等、今までに一度でもあっただろうか。
幼い頃に自分の双子の兄を殺して以来、ずっと他人を殺して殺して、ただひたすらに殺して生きていた。
それは息をするのと同じぐらいに自然な事で、その事について考える等、全く意味の無いくだらない事だった。
それなのに、何故か。
「………」
前髪を揺らす風に、幻影を見る。
光り輝く陽の下で笑う、黒髪の東洋人の少女の姿。
元気良く片手を挙げて自分の名を呼ぶ、純真無垢そのものな表情を持つ少女、三浦ハル。
あの太陽の様な彼女は今頃、どうしているだろうか。
遠く離れた日本で暮らす、自分とは掛け離れた世界で生きる少女は。
今もまだ沢田綱吉の傍にいて、あの笑顔で、皆を元気付けているのだろうか。
「ししっ、らしくねー」
ズキリと微かに痛んだ胸に、小さく毒付く。
どうだって良い事だ。
彼女が何をしていようが、誰の傍に居ようが、自分には全く関係の無い事だ。
キリとナイフを握る指に力を込め、無理矢理に幻影を振り払おうと視線を上空へと上げる。
天空で輝く月は、儚く淡い光を地上に降り注いでいる。
彼女とは正反対の輝きで、天を見上げている自分を照らしている。
冷たいその光に息を吐き、白い空気に目を眇めた。
この冬の空にも似た冷気漂う世界こそが、殺し屋である自分に相応しい。
春の陽だまりの様な少女の醸し出す空気は自分を弱くする物でしか無く、傍に置くとそれだけで自分の居る世界との温度差が苛立たしいぐらいに明確になる。
「ちっ」
軽い舌打ち音が、銀色の月の光の中に消えた。




「マジで?そりゃねーじゃん、ボス。そんならマーモンでも出来るんじゃね?」
「マーモンには別の仕事やらせてんだ。暇なのはテメェだけなんだよ」
豪華な椅子に足を組んで座っているザンザスが、執務机の上に数枚の紙を束ねた書類を放り投げる。
乾いた音に、けれどベルフェゴールはそれを受け取ろうとしなかった。
「だりー。オレ、今あんま日本に行きたくねーんだけど」
「うるせぇ」
一言で拒否の言葉は却下され、ベルフェゴールは渋々手を伸ばした。
然程重くは無い書類の束は、その内容ですらも大した物で無い事が嫌でも解る。
指先で薄い束を捲り上げると、案の定予感は的中していた。
「てめーが勝手に敵を作りやがるから、オレの仕事も増えてんだよ。ちったぁ此処から離れて頭冷やして来い」
ザッと仕事の内容に目を通している最中、ザンザスの低い声が耳に届く。
「あー、この前のアレね。だってあれは向こうから仕掛けてきたんじゃん?オレのせいじゃねーし」
「わざわざあんな目立つ印付けておいてほざくな。あれでルッスーリアが一度襲撃を受けてる」
「は?何でアイツに矛先が向くワケ」
「大方、この中で一番弱そうに見えたんだろーよ。見た目で判断する能無しが多いからな」
「あー、あいつカマだかんなー。…にしても、あの筋肉が見えないぐらい、バカな連中だったワケか。マジ弱ぇな。で、別にやられたワケじゃねーんだろ?」
「阿呆か。当たり前の事を聞くな」
「んじゃ何で…」
「ルッスーリアが経費だとかぬかして、血で汚れた服の代わり要求してきたんだよ。別に金はどーだって良いが、これから先ああやって一々取り合うのも面倒だ」
ベルフェゴールは肩を竦めて、書類を頭の上に掲げてみせた。
そのまま室内の隅にある暖炉へと投げ込む。
チロチロと燻っていた炎はあっという間に書類を嘗め尽くし、火の粉を爆ぜて犠牲になった紙を糧に勢力を盛り返す。
「仕方ねー。ちゃっちゃと済ませてくるか」
ザンザスの部屋を後に、ぼやきながら広い廊下を歩く。
主の性格が反映された館には余り人気が無く、すれ違う者も片手の指の本数程も居ない。
挨拶も何も無いすれ違いの中、一人だけ呼び止める者があった。
「ベル」
「ん」
ベルフェゴールは視線を落とし、声の主の傍で立ち止まる。
黒衣の全身マントを羽織った赤ん坊が、何時も通りの無表情な顔で其処に居た。
「日本に行くのかい?」
「あー、オマエに行かせようとしたらボスが駄目だってさ」
「当たり前だろ。ボクには別に金のなる仕事があるからね」
口をへの字の形にしたまま、マーモンはつまらなそうにベルフェゴールを見上げている。
「ま、どーせ直ぐに終わりそうな仕事だしー?手早く終わらせて帰ってくるさ」
「いいのかい?」
片手を挙げて一歩を踏み出した足が、意味深なマーモンの言葉にピタリと止まる。
意識しての事では無く、ごく自然に。
「……何が」
「せっかく日本に行くんだ。あの子に会って来れば、少しは落ち着くんじゃないのかい?」
「………。…オマエがそんな事言うの、珍しいんじゃね?金にならない事には無関心な癖に」
「面白そうだからね。偶には良いだろ?ベルがそんな顔するのは滅多に見られるものじゃないし」
「ししっ。余計な世話だっつーの」
小さく笑って返すと今度こそ歩みを止める事無く、ベルフェゴールは用意良く手配されていた車へと乗り込んだ。
その身一つで空港に向かいながら、走り出した車の窓から流れる景色を何とは無しに眺める。
昼前であっても、太陽が雲で隠された薄暗い陽の射さない路地には。歩く者は一人も居ない。
迂闊に出歩けば命の保証が出来ないと呼ばれている場所だから、それも仕方の無い事だろう。
シンと静まり返った空間に車の走る音だけが響き渡っている。

『あの子に会って来れば、少しは落ち着くんじゃないのかい?』

先程会ったばかりのマーモンの言葉が脳裏に響く。
「うるせっつの…」
ぼやいた台詞はエンジン音に掻き消され、運転手には届かない。
尤も届いていたとしても、彼が自分から此方に話しかける事は無いだろうが。
窓枠に頬杖をついたまま目を閉じようとした矢先、ふと風に舞う茶色の乾いた葉が視界に飛び込んで来る。
車は何時しか先日夜中に歩いたばかりの街路へと出ていた。
此処を突っ切れば、後は空港まで一直線の道だ。
チラリと見遣った先には、幾つもの街路樹の姿がある。
道の脇にしっかりと根付いた木々達の枝には、既に一枚の枯葉も残っていなかった。




仕事はとてつもなく簡単で、あっさりと終わってしまった。
ジャパニーズマフィア、即ち日本名ではヤクザと呼ばれる存在の組を一つ潰すという、ただそれだけの物だった。
これだけであれば、何もわざわざベルフェゴールが出向くまでも無く、組織の下っ端でも充分にこなせる任務だ。
其処を敢えてベルフェゴールを指名したのは、やはり最近のベルフェゴールの挙動が攻撃的になっているせいなのだろう。
マーモンが知っているのであれば、ザンザスもその原因が解っているに違いない。
「あーもう、どいつもこいつも…王子に指図し過ぎ」
はー、と盛大な溜息を吐くと前髪を掻き上げる。
久しぶりにクリアに見える視界には陽の光が眩しく、目を眇めて反射の痛みをやり過ごす。
人気の無い公園は、少しばかりイタリアのあの街路を思い出させた。
点在する樹木は、やはり枯葉一枚点けていない。
皆、見事に地に落ちて朽ち果てている。
儚い命の行く末を何とは無しに眺めている最中――突然、背中に衝撃が来た。
「!?」
気配を感じるのが遅れた事に舌打ちしながら振り返ると、其処には一人の少女の姿があった。
「やっぱりベルさんです!日本に来てたんですね〜」
満面の笑みで抱きついているのは、今一番会いたくなかった人物だった。
忘れると決心して日本を離れて三年、一度も忘れた事の無い笑顔だった。
これならまだ敵に背中を刺されるなり、撃ち抜かれるなりされていた方が数段マシだった。
「…何で、此処にいるワケ?並盛じゃねーよ?此処」
「修学旅行です!ハルの高校、今年は京都だったんですよ。でも、凄い偶然なのです!まさかこんな所でベルさんに会えるなんて思ってませんでした」
「オレだって、思わなかったよ…」
半ば呆然とベルフェゴールは答えた。
世の中にはマイナスにしか働かない、とんでもない偶然もあるものなのだと。
ハルは腕を解くと、ベルフェゴールの正面に回って直に視線を合わせて来た。
「何時日本に来たんですか?」
「今朝来たばっかだけど…」
ハルの笑顔からついと視線を逸らし、僅かに唇を噛む。
ついてない。
全く以ってツイてない。
ハルが眩しいのは、この降り注いでいる太陽光の明るさのせいだけではない。
この笑顔が明るいと感じるのは、決して目の錯覚ではないのだ。
「…王子忙しいからさ、もう行くわ。バイビ」
「はひ!?あ、ちょ、ベルさん待って下さい!!」
背中を向けるベルフェゴールに、ハルは慌てて追い縋った。
コートの端を掴み、無理矢理に引き止める。
「…何」
「あ…えっと、もう行ってしまうんですか?忙しいのは解ってるんですけど、もう少しお話したくて」
「無理。離してくんね?」
「………」
冷たく突き放すが、ハルの指は依然としてコートを握ったまま。
「ハル」
「……す」
「す?」
「嫌です!!」
予想もしなかった言葉とでかい声量に、ベルフェゴールは目を丸くしてハルを見下ろした。
「…ハル?」
「嫌です!嫌です!!…いや、です…!」
音がしそうなぐらい強くコートを握っているハルの手は、カタカタと小刻みに震えていた。
「ベルさん、ハルがこの手を離したら行ってしまうでしょう?そんなの、嫌です!」
今にも泣きそうな表情で、けれど決して涙は流さないまま、ハルは強い視線で此方を睨んでいる。
何故か先程までの笑顔以上にその表情は眩しく、深く深くベルフェゴールの脳裏に焼き付いた。
「…あんま聞き分けねー事言うんなら、殺すよ?オレの職業、ハルもう知ってんだろ。オレが何してんのか、何しに日本に来たのかも解ってんじゃねーの?」
態と冷たい声音で畳み掛けるように言葉を紡ぐ。
本気の意思を込めたそれに、ハルが怯えて指先を離してくれる事を願いながら。
「知ってます。ベルさんが殺し屋だっていう事も、日本を離れたあの頃、ツナさん達の敵方だった事も。全部、ハルは知っています」
「なら――」
「それでも!」
ベルフェゴールの言葉を遮り、ハルは叫んだ。
とうとう目の淵から涙の堤防を決壊させ、ボロボロと頬の上を転がせながら、ハルはもう片方の手でベルフェゴールの手を掴む。
「それでも、ハルはベルさんと一緒に居たいんだから、仕方が無いじゃないですか!!殺されても、傍に居たいんですから…!」
間近で怒鳴るハルの両目は、いっそ怒っていると言っても過言ではなかった。
「お別れも何も言えなくて一生懸命探して、実はベルさんは敵だと解って、殺し屋だっていう事も知って!それでも、ハルは探してたんです!!イタリアにだって行きましたし!」
「…は?」
次々と浴びせられる台詞の弾丸に、ベルフェゴールの思考が止まり掛ける。
この少女は一体、さっきから何を言っているのだろう。
不思議で仕方が無かった。
「イタリアに来たって、オレを探す為に?」
「他に何があるって言うんですか!イタリア語だって、その為に勉強したんですよ!?」
大変だったんですから!と大声で叫ぶハルに、ベルフェゴールの口が半開きのまま固まった。
「なのに、ツナさんのお父さんに追い返されて、その内ベルさんと会わせてやるからって言われて、ハルは大人しく待ってたんです!それなのに、ベルさんは――…っ」
「ちょい待った」
放っておけば延々と続きそうなハルの口に掌を押し付け、無理矢理にではあるが静寂の時間を作り出す。
掌の下でもがもがと叫び続ける、くぐもった声は聞こえているものの、これで僅かに考える余裕は出来た。
「あのさ…」
漸く大人しくなったハルの口から手を離し、ベルフェゴールは改めて口を開く。
「はひ」
涙は止まったものの、濡れた頬を拭う事無く、相変わらず此方を睨んでいるハルは両の手に力を込めた。
絶対に逃がしはしないという気迫に、妙に笑いがこみ上げて来る。
「何でオレをそんな探してたワケ?一緒に居たいってどういう意味」
「言葉通りです。一緒に居たいから、ベルさんを探してたんです」
「それ、オレを好きだって事?」
そう問いかけた瞬間、ハルはきょとんと目を瞬かせた。
「はひ?」
「だから、ハルはオレの事が好きだから探してたって事?」
「それは―…考えてもみませんでした」
今度はハルの方が呆然とした表情で呟く。
誤魔化しでもとぼけている訳でも無く、本当に気付かなかったのだろう。
今更ながらに顔を赤くして、ハルは俯いてしまった。
それは、自分の想いを自覚してしまったせいか。
「オレさ」
「…はひ?」
「オレ、殺し屋なんだよね」
「知ってます」
「マフィアの一員でもあるしさ」
「解ってます」
「本当に?」
「………」
「本当の意味で解って言ってんの?それ」
ハルは俯いていた顔を上げると、しっかりと此方を見た。
「オレと一緒に居るって、それでも言えるワケ?殺し屋の傍に居たいって」
残酷な事を言っている自覚はある。
たかだか17やそこらの、極々普通の一般人である少女に、こんな選択を突きつける事は間違っているという事も。
最良なのは、このままこの場で別れる事だ。
何も言えないハルを残して、さっさと日本を発つ事だ。
それをしなかったのは…出来なかったのは、自分の未練を断ち切る為でもあった。
これはある意味、儀式とも言えるかもしれない。
完全に関係を絶つ為の、大切な過程。
「ベルさん」
「ん」
「ハルは、ベルさんの事が好きだとか、そんなのは考えた事もありませんでした」
「………」
「考えていたのは、何としてでもベルさんを探す事と、それから一緒に居る為の方法。これだけです。それは、今でも変わりません」
ハルはコートを掴んでいた手を離し、もう片方の手に添えた。
両手でベルフェゴールの片手を握ったまま、ふわりとした笑みを浮かべる。
「この三年間、ずっとベルさんに会いたかったんです。あれから並盛に色々な事が起こって大変でしたけど、それでもベルさんの事を一度も忘れた事なんて無かったんですよ?」
盛大な愛の告白とも取れる、ハルの強い言葉に、ベルフェゴールは口を閉じた。
それから、ハルの身体をしっかりと抱き締める。
「ハル、ばっかじゃねーの?それ、オレの事が好きだって言ってる様なもんじゃん。それで自覚なかったなんてさ」
「はひ!馬鹿とは失礼です!!」
突然の抱擁に驚くも、直ぐにムッとした表情で言い返してくる。
その反応も表情も、とてつもなく愛しく感じられ、ハルを上向かせると口付けた。
柔らかな唇は想像以上に甘く、何度も角度を変えて深く舌を絡める。
掴まれたままの片手を優しく解き、指先をしっかりと合わせて手を繋ぐ。
ハルは抵抗する事なく全てを受け入れ、目を閉じて身を任せた。
ベルフェゴールも瞼を下ろそうとする瞬間、視界の端に飛び行く枯れ葉が飛び込んで来た。
木々から切り離された儚い命は、カサカサと音を立てて地面に落ちて行く。
その行く末は、まるでこれからのハルと自分の様だ。
ボロボロになって、朽ちて、消えて行く。
これから先、この時の決断を後悔する事もあるだろう。
ハルを苦しませる事も、泣かせる事も。
それでも、一度掴んでしまったこの手は、二度と離さない覚悟だけはある。
どんな苦難でも二人で居れば乗り越えていける等、陳腐にも聞こえる言葉だが、それでも今はそれを敢えて使ってみようと思う。
二人でこれから先、ずっと共に在る為に。
例え、これからの未来が、あの枯れ葉の様に儚いものでしかないとしても。
それでも、繋いだこの手は決して離す事なく、生きて行こう。
最後の最後まで。
ギリギリの、その瞬間まで。






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