ひたるもの
口の中が溶けそうな程、甘い甘い夢の中。
心臓まで染まり行く程、とろける愛の中。
雲雀恭弥は目を覚ました。
「………」
微かに重く痛む頭を片手で押さえ、ゆっくりと上半身を起こす。
どうやら何時の間にか眠っていたらしい。
見慣れた応接室の執務机に視線を落とし、其処に皺になった書類を見て溜息を吐く。
「…全く」
こんな所で居眠りをしてしまうとは、自分らしくも無い。
草壁を始めとする、風紀委員の面々は恐らく校内を回っているのだろう。
誰一人居ない、静かな室内に視線を巡らせて前髪をかき上げる。
未だ、夢の感触が其処に残っている気がして眉を寄せた。
身体の先から芯まで、全てが甘く溶かされて行く、あの感覚。
緩やかな死にも似たそれを振り払う様に、二度三度頭を振る。
それで眠気はすっかり消えたが、何故か感覚だけが消えない。
ジンと痺れる指先に、ふと脳裏を一人の少女の姿が掠める。
そう言えば最近会っていないな、と其処で初めて気付いた。
もう一週間近くにもなるだろうか。
それまでは毎日の様に此処へ通って来ていただけに、気付いてしまうと妙に部屋が寒々しく感じられるのが不思議だ。
最も、毎日毎日やたら煩く騒いでいたから、その反動でそう思ってしまうだけなのかもしれないが。
「……巡回にでも行くとしようか」
小さく息を吐いて椅子から立ち上がる。
その瞬間、強烈なイメージが脳裏に閃いた。
甘い匂いと、トロリとした鮮やかな瞳。
「何なんだ、今日は…」
眉を顰めて小さく毒付くと、不意に扉が開かれる。
ノックも無しに入室してくる人物は、そう多くは無い。
それ以上に、この部屋へ訪れる事の出来る人物自体が少ないと言っても良い。
「よ、遊びに来たぜ。恭弥」
片手を挙げて爽やかな笑顔と共に入って来たのは、金髪の青年だった。
何度も武器を交えた事のある相手の名は、確かディーノと言っただろうか。
「………」
無言でトンファーを取り出そうとすると、ディーノは慌てた様に挙げていた手を下ろして「タンマ!」とストップを掛ける。
「遊びに来たって言っただろ?今日はお前とやりあうつもりはねぇよ」
「それなら帰りなよ」
「お、オイオイ。本当に冷たい奴だな…。そんなだからハルも」
ハルの名を口にした途端、ディーノはしまったという表情で口元を押さえる。
「何」
だからつい、尋ねる声のトーンが低くなってしまった。
どうだって良いと思う頭とは裏腹に、身体は自然と三浦の名前に反応を示してしまう。
「あー…いや、その…な?」
「ハッキリ言いなよ」
「いやホラ、口止めされてっからさ。俺の口からはとても――」
狼狽するディーノの視界に、わざとトンファーを入れてやる。
笑顔のまま固まる青年に、ゆっくりと口の端を笑みの形に作った。
「三浦が、どうかしたの」
「お前…覚えてないのか?」
もしも相手がそれ以上口を噤む気であったならば、力付くでも聞き出そうとしていた手を止める。
「?」
怪訝そうな表情に、ディーノは深い溜息を漏らす。
それが癪に障ったけれども、続きを待つ為にその姿勢を維持しておく。
「お前さ、ハルに何て言ったか覚えてるか?えーっと、確か一週間ぐらい前だったか。そのぐらいに」
「三浦とはもう、数えるのも馬鹿らしくなるぐらい会話しているけど」
「いや、そうじゃなくてだな。あー…何ていや良いんだ、こういう場合」
ディーノは言葉を思い出す様に髪の毛をガシガシッと掻き毟り、眉間に皺を寄せて宙へ視線を彷徨わせている。
「とにかくだ!ハルはお前のせいで旅行に出ていたんだから、こっちに来たら少しは優しくしてやれよ!?」
結局上手い言葉が思いつかなかったらしく、それだけを言い残すとディーノは部屋から出て行ってしまう。
扉が閉まった瞬間、廊下から何かが盛大に転ぶ音が聞こえて来る。
その正体は、わざわざ見に行かずとも解るだけに放置しておく事にした。
「本当に何しにきたの…」
行き場の無くなってしまったトンファーを収め、視線をカーテンの引かれていない窓へと移す。
既に陽は沈み掛けており、室内を暁色に染め上げている。
最後の輝きと言わんばかりの夕日に、何故か苛立ちを感じ微かに目を細めて息を吐く。
今更遅いとは解っているものの、やはりディーノにトンファーを叩き付けておくべきだったかと後悔する。
これは何かにぶつけて発散しておいた方が良いだろう。
そう判断し、再び部屋を出ようと扉に手を掛けた瞬間――。
扉が再び、廊下側から開かれた。
思い切り自分の顔目掛けて襲い掛かる木の板を身軽に避け、開いたであろう張本人を睨み付ける。
「はひ?」
久しぶりに聞いた声と共に、声の主は扉の向こうで目を丸くしている。
「ヒバリさん、そんな所で何をしてるんですか?」
「………」
悪気も何も無い台詞に、額に青筋が浮かび上がりそうになる。
「いきなり人に攻撃仕掛けてきておいて、言うに事欠いてそれかい?」
扉を押さえつけると、目に見えて三浦ハルは怯んだ。
「だ、だって。まさかそんな所にいるなんて思いもしませんでしたし!」
「もし僕以外の者が此処に居たら、間違い無くそいつは地面に伸びているだろうね」
「う、す…すみません」
ハルは素直に謝ると、今度はそろりと扉を開いて勝手に室内に入って来た。
「それで、君は何しに来たの」
「あ、それはですね」
冷たく言い放った言葉に傷付く様子も無く、ハルは嬉しそうに手にしていた包みを持ち上げて笑った。
「ジャーン!これを持って来たのですよ!!」
「…何」
目の前に差し出された茶色の紙袋を見遣る。
手を出そうとしない自分に焦れたのか、ハルはそれをぐいぐいと無理矢理に押し付けてきた。
それを受け取ったのは、単なる気紛れとしか言いようが無い。
別に、先程のディーノの言葉を思い出したせいではない事だけは言っておこう。
「ハルの特製、手作りチョコレートです!」
ビシッと人差し指を袋に突き付けて、ハルは得意気に笑っている。
「凄く苦労したんですよ。カカオからチョコレートを仕上げて、そこから…」
「は?」
何やら奇妙な言葉が聞こえた気がして、思わず聞き返してしまう。
今、チョコレートの原材料なる名前を、この少女は口にしなかっただろうか。
「ですから、カカオです!ディーノさんにお願いして中南米に行って、そこからカカオ豆を入手してきたんです」
「………」
呆れた表情が直接顔に出ていたのだろう、それを見たハルが不満気に詰め寄ってくる。
「何ですか、その顔!仕方ないじゃないですか、今の日本じゃ個人的にカカオ豆輸入出来ないんですから!!日本に持ち込むのだって、一苦労だったんですよ?…ヒバリさんが味に拘りがあるっていうから、最初から全部手作りにしたのに」
「君が何を言ってるのか、さっぱり解らないんだけど…」
「一週間前、ヒバリさん珈琲飲んでたじゃないですか」
「だから?」
全く話が見えないせいで、先程から尋ねてばかりだ。
「ヒバリさんが、珈琲は豆から挽くのが良いって」
「それで、カカオ豆…」
クラリと不意に眩暈襲い、目の前が僅かに暗くなる。
この少女の突飛も無い行動には慣れたつもりではあったが、思考までもがこうも飛躍するとは思ってもみなかった。
確かに、珈琲は豆から挽いて飲むのが一番美味しい。
それを彼女に話した記憶もしっかりと残っている。
だが、だからと言って、ハルが旅行に出た原因、それがどうして自分のせいという事になるのだろうか。
ディーノの台詞を思い返し、言い知れない不快感が湧き上がって来る。
そもそも、ハルは何故ディーノを頼ったのか。
別に彼女が誰を頼ろうが自分の知った事ではないが、どうにも気分が悪くて仕方が無かった。
「と、とにかく!しっかりと豆から作ったものなので、絶対に美味しいはずです!!ディーノさんも保証してくれましたから、自信もありますし!!」
ピクリ、と片眉が跳ね上がる。
「彼も食べたのかい?チョコレート」
「はい、味見してくれましたから!」
自信満々でハルは勢い込んで此方を見ている。
早く食べて欲しいのだろう。
けれど、今はそんな気分にはなれなかった。
何故なら、まずはするべき事が出来たからだ。
「はひ?」
受け取った紙袋を執務机の上に置き、ハルを手招きする。
「君は其処に座ってなよ」
「ヒバリさん、何処か行くんですか?」
「ちょっとね…すぐ戻る」
ハルの座ったソファに投げていた学ランを取り上げ、それを羽織ると開きっ放しだった扉を潜る。
まだ近くにいるであろう金髪の跳ね馬を探し出す為に。
「良い度胸してるよね、彼も…」
誰も居ない廊下を早足で進みながら小さく呟く。
トロリとした甘い感触。
夢の中で得ていたそれを、自分よりも先に味わった報復を、何としてでもディーノには受けて貰わねば気が済まなかった。
「それ世間一般では、嫉妬って言うんだと思うぞ…」
後に、雲雀と散々闘い尽くしたディーノが、溜息交じりにそう零したとか。