委員長なるもの







先程からヒバードが、しきりと天井付近を羽ばきながら飛び回っていた。
普段は放し飼いにしている雲雀の飼い鳥は、放課後であるこの時間帯は必ず応接室に戻って来る。
それは何故か。
答えは単純明快で、何の事は無い。
飼い主の待ち人を、この鳥もまた同じく待っているだけなのだ。
草壁は小さく息を吐いて、真白い壁に掛かっている時計を見上げた。
「遅いな…」
そう口にしたのは草壁では無く、それまで書類に何かしら書き付けていた雲雀だった。
「委員長。そうは言いましても…まだたった数分です」
「数分でも遅刻は遅刻だよ。何処で何をしてるのか、後でじっくり問い質さないといけないね」
雲雀の口調に不穏な響きが宿るのを感じ、思わず今此処には居ない彼女に同情する。
全く、大変な人を恋人にしたものだ。
嫉妬深いパートナーを得るとこれ程までに大変なのかと、他人事ながら頭痛を覚えてしまいそうになる。
「イケナイネ、ナイネ」
別段彼に賛同している訳ではなく単に言葉を真似ているだけなのだが、囀りに合わせて肩へ止まったヒバードへ、雲雀はそれはそれは恐ろしい笑みを浮かべて頷く。
「あぁ、来るのが楽しみだ」
中学生に不似合いな万年筆を執務机へと置き、椅子を反転させて雲雀は窓辺へと近付いて行く。
校庭が良く見えるこの位置は、群れている草食動物を見つけるのに最適な、雲雀にとってとても都合の良い場所である。
夕焼け色から闇色へと染まりつつある校庭を見下ろし、彼は其処に何者かの姿を探していた。
否、何者とは言えどそれは間違い無く彼女、三浦ハルの姿だろうが。
「遅いな…」
繰り返される言葉は、先程発されてからまだ三分と経っていない。
元々自分にとって気に入らない事に関しては気が短い人間だったが、ハルを手に入れてからというもの、ますます短く狭まった気がする。
「ハル、ハル。はひー」
肩で煩く鳴く鳥に、しかし雲雀は一瞥する事も無く窓に視線を向けたままだ。
沈黙の間に、時計の音だけが耳に響いて来る。
カチ、カチと秒針が時を刻む毎に、草壁の心音もまた高鳴って行く。
ハルの来訪が遅れれば遅れる程、雲雀の醸し出す雰囲気が怪しくざわめく一方だった。
「ハルハル、ハルハル、デンジャラス!」
高らかにハルの声音を真似ているヒバードに、頼むからもう黙っていてくれ、それ以上雲雀を煽らないでくれと叫びたくなる。
沈み行く夕日に照らされた雲雀の横顔が、不気味に笑みを刻んでいるのがこの位置からでもハッキリと解った。
その脳内で一体どんな目に合わされているのか、哀れなハルの姿を想像するだけで身震いがする。
彼女が早く来る事を祈りながらも、寧ろ今日はもう来ない方が良いかもしれない等と、自分の保身とハルの安全を一瞬だけ秤に掛けてしまう。
そんな時間が終わったのは、雲雀が窓辺に立ってから10分程経過した頃だった。
ピクリと上がった片眉と、途端に不機嫌そうな表情になった事からして、校庭に余り良くない光景でも見えたのだろう。
「草壁」
「はっ」
呼ばれて近付いて行くと、促されるままに窓の下を覗いた。
太陽は殆ど山の向こう側に隠れてしまっているせいで、視界はかなり悪くなっている。
しかしそれでも、窓の向こう側に雲雀の待ち人がいる事は見て取れた。
問題は、その直ぐ傍に別の男の姿がある事。
楽しそうに談笑している二人に、雲雀の機嫌は悪化する一方だ。
「あそこで群れている男の方、咬み殺して来て」
「い、いえ…委員長。お言葉ですが、あれは三浦ハルの仲の良い友人の一人です」
「だから?」
「ですから、制裁を加えれば彼女を泣かせてしまう事になるかと…」
「………」
草壁の言葉に、雲雀は更に不愉快そうに沈黙した。
本来であれば今直ぐにでも窓から飛び降り、彼を叩きのめしたい衝動に駆られているだろうに。
それを堪えているのは、多分に傍にいるハルのせいだ。
以前の彼であれば、迷う事無く咬み殺している。
それが今では射殺す様な視線を男へと送っているだけで、何時の間にか取り出していたトンファーを握り締めているだけ。
ハルに感謝するべきか、それとも忠告するべきか。
どちらが彼女にとって最良の選択なのかを考えている内に、再びヒバードが室内を飛び回り始めた。
「デンジャラス、デンジャラス」
全く以って今のこの雰囲気に相応しい言葉を繰り返しながら、丸い小鳥は飼い主の頭上を旋回している。
どうやら彼の忍耐力もそろそろ限界に近付いているらしい。
ハルは此方に気付く事も無く、男の前でターンを決めて見せていた。
ふわりと揺れるスカートに、薄暗くても見える白い脚が大幅に姿を顕している。
そういえば近々新体操の大会があると、先日応接室で雲雀に告げていた事を思い出す。
恐らくはその成果の一端を披露しているのだろうが、その場所でその行動は非常に不味い。
「ヒバード…」
案の定、雲雀の口元から低い低い声が流れ出した。
「あそこにいる男の目を抉っておいで」
今にも窓を開けて鳥を放ちそうな勢いで、雲雀はヒバードに命令を下す。
「委員長、流石にそれは」
大人気無いのでは、と続け様とした言葉は止めておく。
ヒバードはと言えば、相変わらず楽しそうに飛び回っているだけだ。
結局彼の指令は果たされる事無く、雲雀の凝視がトンファーへと擦り変わる直前で、ハルは男に片手を振って校舎内へと駆け込んで行った。
そのまま真っ直ぐに此方へ来る様であれば、5分と掛からないで到着するだろう。
雲雀が再び椅子に腰を下ろすのを見ると、草壁もまた扉の前へと移動した。
扉の向こう、遠くから聞こえて来る足音を聞きつけたらしく、ヒバードも雲雀の頭の上へと舞い降りて行く。
「はひ、すみません。ちょっと遅れてしまいました!」
足音に合わせてタイミング良く扉を開けると、何時もの通りハルが中へと飛び込んで来た。
「あ、草壁さん。こんにちは。有難う御座います」
嬉しそうに笑って礼を述べるハルへ、これまた普段と同じく軽く頭を下げるだけで応じる。
「ヒバリさん、ヒバリさん、聞いて下さい!」
最早慣れてしまったやり取りは数秒で終わり、ハルは颯爽と雲雀の元へと飛んで行った。
「何?」
雲雀は万年筆をサラサラと書類に走らせ、顔も上げずに紙面だけを見ている。
その口調は先程とは打って変わり、至って落ち着いたものだ。
これは別に拗ねているとか、そういう態度ではない。
否、多少の御幣はあるだろうが、拗ねている事には間違い無い。
だがそれ以上に、ハルの前では決して取り乱したりしない様に、常に冷静さを装っているだけなのだ。
雲雀恭弥という男は元来余り執着心を持たない人間ではあったが、一度それを持ってしまうと酷い独占欲を発揮してしまう性質をしていた。
しかしそれを面に出す事はプライドが許さないらしく、だからこそハルの前ではこの様な態度で接する事が多いのだろう。
全てを傍から見ていた草壁しか知らない、彼の秘密の一つである。
「はひ、はひ、はひー」
雲雀の頭の上でハルの口癖を真似する鳥に、彼女は嬉しそうに片手を伸ばした。
「ヒバードちゃん、ハルの真似が上手です」
小さな黄色い頭をそっと指先で撫でられ、ヒバードは満足そうに羽をばたつかせている。
「で、用件は何なの」
「あ、そうでした」
知らない人が見れば冷たいとしか言い様の無い物言いに、しかしハルはめげた様子も無く片手に抱えていた鞄から薄い布を取り出した。
如何にも柔らかく手触りの良さそうなそれは、一見しただけでは下着の様にも見えるレオタードだ。
「これ、今度の大会で着る衣装なんです!ずっと欲しかったんですけど、やっと買えました〜!!」
目の前でびらっと衣装を広げるハルに、雲雀は其処で漸く顔を上げる。
淡い桃色の生地と、裾を軽くフリル状態にしたレオタードは、彼女の身体に良く映えるだろう色合いで、草壁の目をも引き寄せていた。
瞬間、雲雀の纏う空気が一気に低下する。
「ふぅん、そんなのを着るんだね」
一瞥しただけで再び書類に視線を落とした雲雀に、ハルは頬を膨らませてレオタードを腕の中へと引っ込めた。
「そんなのってあんまりです!これ、キュートじゃないですか?」
余程新しい衣装が嬉しかったのだろう。
それだけに、ハルは反応の薄い恋人にガッカリと肩を落としている。
「別に。どれを着ても一緒でしょ」
「はひ…」
しょんぼりとするハルに、ヒバードが小首を傾げて雲雀の頭から軽い羽音と共に飛び上がる。
「キュート、キュート。はひー、キュート!」
今度は彼女の頭の上で飛び跳ねる小鳥に、ハルは目を瞬かせて破顔した。
「ヒバードちゃんにも解るんですね?はひ、嬉しいです!」
「ヒバード、キュート!」
本当に解っているか怪しい問答ではあるが、本人が喜んでいるのだからそれはそれで良いのだろう。
飛び跳ねる小鳥と一緒に今にも踊り出しそうなハルを横目に、改めて雲雀の方へと視線を向ける。
依然として書類に視線だけは落としているものの、彼がハルの腕の中にあるレオタードを気にしている事は明らかだ。
面立っては見えない苛立ちを正確に読み取り、草壁は心の中だけで深い溜息を吐き出した。
「副委員長、君はもう帰って良いよ」
ハルがヒバードと楽しそうに遊んでいた数分後。
唐突に雲雀がそう切り出したのは想定内の事で、草壁はチラリと心配そうな視線をハルへと向ける。
彼女は全く気付いていないが、雲雀が片手でネクタイを緩めている姿が視界の端で見えた。
万年筆と書類は疾うの昔に机の隅に寄せられており、これから彼が何をしようとしているのかは明白である。
「…それでは失礼します」
今の草壁に出来るのは、ハルが無事に応接室から出られる様にと祈る事だけだった。
静かに扉を閉めて退出した部屋の中で、ヒバードが窓から放される音が届く。
「はひ、ヒバリさん?」
驚いた様なハルの声が、部屋から遠ざかって行く草壁の耳に飛び込んで来る。
そして何かが引き倒される物音、続いて少女の悲鳴が緩やかに呑み込まれて行った。




三浦ハルが新体操大会の出場を辞退したのは、それから三日後の事。
原因は首筋や太腿等、レオタードを着れば一目瞭然な位置に虫刺されにも似た痕が色濃く付いたせいだと話しに伝え聞く。






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