愛しい過程とその記憶
手を伸ばせば届く距離。
ほんの一歩も必要無い、そんな近い場所に居るというのに、どうして彼はこんなにも遠い存在なのだろうか。
唇を噛み締め、ハルは小さく俯いた。
答えは既に自分の内に出ており、後はそれを口にするだけだと誰よりも知っているからこそ、余計に今まで言えないで来てしまった。
この先もずっと、このままの状態で過ごしていたとしても、何ら問題は無い。
ただ、それに自分が耐えられるか否かと問われれば、返答に窮してしまうのは事実。
ズルズルと先延ばしにすればする程、互いの溝は深くなり、そして苦しさは増す一方なのだろう。
ならばもう、道はひとつしかない。
「ヒバリさん」
震えそうになる声を必死で押し留める。
泣いては駄目だ。
一粒でも涙を流してしまったら、きっと自分は一生この言葉を口にする事は出来ない。
向き合った視線が絡み合い、無言の時が数秒、二人の間を流れて行く。
二人で過ごした日々が、まるで走馬灯の様に凄い勢いで脳裏を駆け抜ける。
まるで死に行くみたいだと、それが少しだけ可笑しかった。
ハルは両手を伸ばし、雲雀の白い頬へと静かに這わせる。
そして、柔らかく笑んだ。
もう二度と触れる事の無いであろうこの肌の感触を、しっかりと覚えておこう。
そう思いながら、ハルはゆっくりと顔を近付けた。
重なる唇に、どちらともなく目を閉じる。
「お別れです。ヒバリさん」
顔を離すなり放たれた言葉に、雲雀は薄い笑みを返す。
「此処数日もの間、考え込んでいた内容はそれかい?…いや、数日じゃきかないな。数週間か」
「はい。長過ぎて脳がオーバーヒートを起こしそうでした」
「疾うの昔に起こしてたんじゃないの」
「酷いですよ!」
何時もの様な言い合いに、クスクスと笑い合う。
ハルは両手を引っ込め、クルリと見事なターンを決めて踵を返す。
そのまま一歩、二歩と歩を進め、顔だけを背後へと向けた。
「この10年間、貴方の傍に居る事が出来て、ハルはとても幸せでした」
透明な笑顔というものは、心をそのまま映し出す鏡そのものなのだと、後に雲雀は綱吉に語ったと言う。
「………僕もだよ」
ポツリと雲雀の口から漏れた言葉に、不覚にも涙腺が緩みそうになる。
「素直なヒバリさんなんて、大分怖いですね」
「もっと怖がらせてあげようか」
「いえいえ、遠慮しておきます」
軽口交じりの会話が、とても有難かった。
遠く感じていた距離が少しだけ、ほんの少しだけ縮まった様な、そんな気がした。
例えそれが単なる錯覚だったとしても、そう思えただけで良かった。
「愛してますよ、ヒバリさん。ずっとずっと、貴方だけを」
「知ってるよ。君が僕以外の男に目を向けられる筈が無いからね」
「それは自信過剰というものです」
「でも事実でしょ」
「…もう。知りませんっ」
怒った素振りでふいと横を向き、その拍子に零れてしまった涙を隠す。
立場が違うのだ。
だから、仕方が無いのだ。
何度自分にそう言い聞かせた事だろう。
自分と彼の住む世界は、余りにも違い過ぎる。
そんな現実に気付き、そして離れる決意をするまで。
その時間の、何と長かった事か。
「じゃあね、ハル」
「はい。ヒバリさん」
素っ気無い様に見えてその実、雲雀の眼差しが今まで以上に優しかった事を、今でもハッキリと覚えている。
マフィアという世界へ舞い戻ってしまった背中を真っ直ぐに見詰め、ハルは片手を緩く振って見送った。