限りなく仮装に近い何か
ドスン、と盛大な音と共に、小さな塊が背中へぶつかって来た。
大した衝撃は無かったものの、ネジを締め様としていた矢先だったので、危うくドライバーが指に突き刺さりそうになる。
「………はる。危ない」
スパナは手にしたプラスドライバーを作業台の上に置くと、肩越しにゆっくりと背後を振り返った。
まず見えたのは小さな頭、そして背中にしがみ付いている腕。
その腕から伝わって来る小さな振動に、スパナは軽く眉を寄せた。
「はる?」
…震えている。
ひょっとして寒いのだろうか。
自分は余り気にならなかったが、チラリと見遣った部屋の隅にぶら下げてある温度計は、気付けば20度を下回っていた。
時期も時期であるし、そろそろ空調機を動かした方が良いのかもしれない。
そう結論付けて床から立ち上がろうとするも、はるの両腕は依然として背中から離れない。
そればかりか、何処か怒った様な真剣な表情で、子供は此方を見上げていた。
「すぱ」
「ん」
「これつけて」
そう言うや否やはるは両腕を背中から外すと、スパナの返事も待たずに足元に落ちていた毛の様な物体を彼の頭へ被せた。
ふさり、と頭上から柔らかな毛が擦れ合う音が聞こえる。
「…?」
片手を伸ばして頭へ触れてみると、動物の様な耳が其処に着いていた。
ツヤツヤとした毛触りが存外心地良く、不快な感じは全く無い。
まるでその耳と一体化したかの様な、この装着感。
「はる、これは――…」
視線を前方へ戻すと、はるも又頭部へ何かを着けている最中だった。
「はひ?」
両手を頭へ遣り、もそもそと動かしているその仕草が、子供らしくてとても可愛く見える。
「…耳、だな」
やがて離されたはるの手の下から現れたのは、子供の頭にはややサイズが大きい猫の耳。
黒い毛並みがはるの黒髪と同化して、まるで本物の様にひっそりとその場所で息衝いていた。
「すぱ、かわいい」
「いや、可愛いのはアンタだから」
にっこりと笑って抱き付いて来る子供の頭を撫で、間近ではるの猫耳を眺めてみる。
本物と違い流石に動く事は無いが、やはり此方も毛並みや色艶が良い。
「はる、これはどうした?」
「あのね、びゃくからもらった」
「白蘭から?」
子供を膝上に座らせ猫耳に触れると、ふわふわとした感触が返って来る。
これは、なかなか気持ち良い。
スパナは自然と顔を寄せ、はるの頭に頬を押し付けていた。
柔らかな髪質と毛触りに目を閉じて、直接頭に響いて来る声を楽しむ。
「うん。きょうは、はろうぃんだから…。おばけから、みをまもらないと」
「…意外だな。はるは、お化けを信じているんだ?」
「だって、いるよ?おばけ」
真剣な口調で切り返して来る相手に、ついつい笑ってしまう。
そして同時に安心もした。
勉学で既に大学生並の知識を仕入れてはいても、こういった分野ではまだまだ年相応なのだ。
それが解って安心している自分を、スパナは何処かくすぐったそうな表情を浮かべて受け止めた。
「ハロウィンは、お化けが出るんだ?」
「うん。よるにね、がおーっていっぱいくるの。だから、なかまのふりしないとだめなんだよ。たべられちゃうから」
「あぁ、成る程…」
思わず込み上げて来る笑いを必死で噛み殺し、取り敢えずはるの言葉に頷いておく。
何処から仕入れた知識か知らないが、はるは此方の身の安全を思ってやってくれているのだ。
笑っては失礼だと言うものだろう。
そう考えてはいても、どうしても零れてしまいそうになる笑いに、スパナは頬をそっと外してはるの顔を見つめる。
「それで、耳?」
「うん。ほかに、いいの…おもいつかなくて。びゃくにそうだんしたら、びゃくがよういしてくれた」
「それじゃ、はるは化け猫な訳だ」
「ちがうよ。すぱが、ばけねこ。はるは、おおかみおとこ!」
両手を挙げて、ガオーと可愛らしい威嚇をしてくる相手に、とうとうスパナの努力は決壊した。
くくくくっと肩を震わせ、再びはるの頭へ頬を押し付ける。
「はるは女の子だから、狼男じゃないだろ?」
「はひ?」
恐らくはきょとんとしているであろう子供の身体を抱き締め、小さな頭をやや手荒に撫でる。
「すぱ、いたいー」
文句を言いながらも、はるも嬉しそうにスパナへと抱き付く。
傍から見れば大変仲の良い兄妹に見えるであろうその光景を、室内へ入って来た一人の青年は額に怒りの四筋マークを浮かべて眺めていた。
しかし、彼の忍耐力は早々に切れてしまう。
時間にして5秒と保たず、彼はわざと足音を立てて室内を横切った。
「何やってるんだ」
不機嫌な表情そのままに腕を組み、床に座り込んでいる2人を見下ろす。
「あ、しょー」
聞き知った声に、はるが振り返って笑う。
が、彼の姿を見上げるなり口を大きく開けて、スパナの膝上から退いた。
「だめ!」
「え?」
突如として目を吊り上げる子供に、僅かながら動揺を見せる正一を見上げ、スパナは口元に笑いを浮かべたまま忠告しておく。
「今日はハロウィンだから、お化けの振りをしないと駄目なんだって」
「…?何だい、それ」
「びゃくがいってた。あと、かぼちゃ!かぼちゃのらんぷをもって、とりっくおあとりーと!っていっておかしをもらうって」
「あぁ、白蘭の入れ知恵だったのか」
はるの言葉を聴き、スパナは納得の表情で頷く。
「………」
しかし正一は、両手を大きく振り回して説明するはるを見下ろし、沈黙したまま固まっていた。
どうやら今更ながらに、子供の頭に着いている耳に気付いたらしい。
「だから、しょーもおばけのふり。えっと、えっと…」
ゴソゴソと着ている衣服の内ポケットを探るはるに、そろりと正一の手が伸びる。
その気持ちは良く解るだけに、スパナは止める事無く彼の行動を見守る事に徹した。
「はい!」
やがて取り出された新たな動物耳に、無意識の内にはるの頭を撫でていた正一は、ハッと我に返る。
「え?」
「しょーのぶん。ここ、すわって」
目の前の床を指差され、反射的に正一はその言葉に従った。
そして後悔する。
頭に乗せられた動物の耳に気付くと、彼は瞬時に顔を青くし、恐る恐る背後に居るはるとスパナを見遣る。
「かわいい、しょー。しょーは、ばけたぬき!」
「後は目の周りに黒ずみでも塗れば完璧だな」
はしゃぐ子供と、明らかに面白がっている青年とを見比べ、正一は青い顔のまま、憮然とした面持ちを作って顔を背けた。
「白蘭サン…」
そして、こんな事を仕出かした、最大の原因である人物の名を呟く。
恐らく…いや、間違いなく、その胸中は遣り切れない思いで一杯に違いない。
疲れた様な表情を浮かべて項垂れている正一はそのままに、スパナは再び膝上に戻って来たはるを背中から抱き止めた。
「後はランタンだな」
「らんたん?らんぷ?」
「そう、カボチャを刳り貫いて作るんだ。大きくないと内側に蝋燭を仕込めないから…」
「それと、おかし?」
目を輝かせる子供に頷き、スパナは作業着のポケットを漁って飴を取り出した。
1本は自分で銜え、もう一本は、はるに渡す。
「うん。お菓子…は、厨房に行けば手に入るかな。どう思う、正一?」
「ん…あ、あぁ。取り寄せる事も出来るけど――はる、こっちに来なさい」
スパナの膝上で、楽し気に足をバタつかせている子供の姿に気付くと、正一は片手で手招きしてはるを呼んだ。
「…本当に嫉妬深いな」
素直にスパナの膝から立ち上がるはるに、スパナは小さくボソリと呟く。
その言葉は見事当人に聞こえたらしく、正一の鋭い視線がスパナに突き刺さった。
しかし彼は気にした様子も無く、飄々とした顔で飴の棒を掴み、それを扉へと向けて示す。
「取り寄せって、今日に間に合うの?」
「あぁ、問題無いよ。外に出れば材料なんて幾らでも手に入るから」
「ふぅん」
流石にスパナの真似事は出来なかった様で、正一は隣に座って飴を舐めているはるの頭を撫でている。
羨ましいなら、素直に行動すれば良いものを…。
そう思うものの、彼の性格からしてなかなかそうもいかないのだろう。
「それじゃ、ちょっと頼んで来ようか」
作業台の横に放り投げてあった通信機へ手を伸ばそうとした時、不意に扉が開いて新たな来訪者が現れた。
「はる、お待たせー」
明るい声と共に、ヒラヒラと片手を振って入って来たその人物を見た途端、はるは文字通り飛び上がって走り寄って行く。
「びゃくー!」
ぎゅうぎゅうと長い脚に抱きつく子供の後姿に、床上に残された二人の男は少々苦い思いを噛みしめる事となる。
「んー、良いね。似合うよ、はる。やっぱり持って来て正解だったかな」
「白蘭サン、それは……」
片手ではるを抱き上げる相手に、正一は床から立ち上がりながらも言葉に詰まる。
その理由は簡単に知れたらしく、白蘭はニィと口元を歪めて笑った。
「これ?兎の耳だよ。はるの言葉にすれば、化け兎ってところだね」
「うさぎー。うさぎ、ばけうさぎー。びゃく、かわいいー!」
白蘭の頭部から生えている白く長い耳を触ろうと、はるは懸命に手を伸ばしている。
それを察して、白蘭は僅かに頭を傾けて触れ易い様にしてやった。
「…どうしてまた、はるに妙な事を吹き込んだんですか」
「妙な事じゃないよ。ハロウィンは日本でも、立派なイベントの一つとして広まってるみたいだし」
「それは、そうですが…」
「僕は、はるが知りたいって言うから答えてあげただけ。それに、君達も可愛いものを見る事が出来て役得だったでしょ?」
「………」
「うん。目の保養になった」
咄嗟に言葉が出て来ない正一とは逆に素直に頷くスパナへ、白蘭は満足気な笑みを浮かべたまま一歩近付く。
「直接会うのは初めてだよね。僕は白蘭。何時もはるの面倒を見てくれて、君には感謝してるよ。スパナ君」
「別に感謝は要らない。ウチは好きではると遊んでるだけだし」
「あはは、そうみたいだねー。君の話は、はるから良く聞いてるよ」
「ウチもアンタの話は、はるから毎日聞いてる」
和やかに話す二人を視界の端に入れ、正一は片手で額を押さえて溜息を吐いた。
自分は此処へはるを迎えに来ただけだというのに、どうしてこの様な事になってしまったのだろうか。
色濃い苦悩がその表情に表れ、それを目敏く見つけた白蘭が其方へと向き直る。
「それじゃ、行こうか」
「は?何処へですか?」
「パーティだよ。…と言っても、僕達4人だけの小さなものだけどね。この近くの部屋に用意してあるんだ」
「え。まさか、この格好でですか?」
「何か問題でもある?」
不思議そうな表情の相手に、正一をグラリとした眩暈が襲う。
「白蘭サン、一つ聞きたいんですが。その格好、何処からしてきました?」
「ん、僕の部屋からだけど」
「私室の?」
「そうだよ。他にないじゃん」
「………」
聞いた僕が馬鹿でした。
正一の顔からは、そんな言葉が正確に読み取れた。
スパナには白蘭の部屋が何処にあるのか等知る由も無いが、少なくともこの近くにない事だけは確かだ。
そして彼は、堂々と普通の通路を辿って来たものと思われる。
となれば当然、多くの配下の者の目にも晒されていただろう。
兎の耳を頭に生やした、今のこの格好を。
正一が嘆きたくなるのも何となく解る気がして、スパナは彼に少々同情した。
「おかしもある?」
白蘭の腕の中で、はるが頬を高潮させて訪ねている。
「あるよ。スパナ君の大好きな飴も、色々な味を揃えてるから」
にっこりと笑う白蘭の顔を見るまでも無く、スパナは直ぐ様床上から立ち上がる。
「正一、行こうか」
突然乗り気になった彼を嫌そうに見遣り、正一は再度溜息を吐くと、せめてもの意趣返しなのか、真っ先に部屋から出て行った。