彼には全てお見通し








「足りません…」
それを見たハルは、ポツリと一言呟く。
その顔はとても暗く、かといってそうしたところで手の内にあるそれが増える訳では無い。
「はひ、こうしてはいられません!今すぐ始めないと…っ」
暫し手元を覗き込んだまま俯いていたかと思うと、突如としてくわっと顔を上げて前方を厳しい眼差しで見つめる。
木枯らしが吹く寒い中、ハルは一人燃えていた。
周囲を行き交う人々が思わず彼女を避けて通ったとしても、それは致し方が無い事だろう。
しかしそんな事に構う余裕も無く、ハルは決意を固めた表情でじっと前方を見つめていた。




空を切り裂く音に合わせ、男は扉に張り付いて辛うじてナイフを避ける。
それは男の反射神経が良かったというよりも、苛立ちの余りベルフェゴールの手元が狂ったせいだろう。
幸運にも鋭い刃の餌食にならずに済んだ彼は、額に微かな汗を浮かべたまま、改めてソファにふんぞり返っている少年の元へと歩み寄る。
「ベルフェゴール様。お休みのところ申し訳ありませんが、お仕事の時間です」
本来であれば部屋にすら入りたくなかったであろうに、先程の今で逃げ出さないのは流石と言うべきか。
彼等の主が非常に気まぐれの天気屋で、ふとした事で簡単に他人の命を奪ってしまう様な狂人だと承知の上で仕えているだけの事はある。
「は?オレやんないって言ったじゃん。オマエの耳、腐ってるんじゃね?」
あからさまに顔を歪め、新たなナイフを取り出している上司の姿に、再びナイフが飛んでくる気配を察した男は、何時でも急所だけは守れる様に前もって身構えておく。
「ザンザス様直々の命ですので…大人しく従われた方が賢明かと存じます」
「何それ、オレを脅してるワケ?オマエ名前なんだっけ…えーと、…まぁ良いや。王子脅すなんて良い度胸してんじゃん」
「滅相もありません。本来であれば私如きがベルフェゴール様に意見するのもおこがましいですが、何分相手はザンザス様ですので、差し出がましいとは思いましたが、一言だけ述べさせて―――」
金の前髪に隠された両目から放たれる、刺し貫かれる様な視線に、男の流す汗の量は一気に増える。
危険な香りがますます濃厚に部屋を満たして行く。
いよいよ己の命運も此処で尽きるのだろうかと半ば諦め掛けた頃、ベルフェゴールは途端に視線を外して片手をヒラリと振った。
「あー、もう良い。面倒くせ。行けば良いんだろ?」
「…はい、有難う御座います」
何が彼の気を変えたのはか知らないが、取り敢えずとはいえ承知の言葉を貰う事が出来、男は静かに安堵の息を吐き出す。
「で、今回もマーモンと一緒かよ」
「はい。最初はスクアーロ様とマーモン様だったのですが、急用が御ありだとかで、スクアーロ様は先にイタリアへ戻られました」
ソファから立ち上がり、面倒そうな態度で部屋を出る少年に付き従い、男は己のスケジュール表を手早く見直す。
パラリと捲られた白紙には、これでもかとばかりに細かいイタリア文字がびっしりと書きこまれている。
それだけベルフェゴールの請け負う仕事は多いという事なのだが、肝心の少年は一向に重い腰を上げようとしない。
それこそ自分が気に入った内容でなければ、耳も貸さない有様だ。
おかげで男は一日中奔走し、何とか勢力を集め、自分達で仕事をこなすしかなかった。
しかしそれにも限度というものはあり、どうしても自分達では出来ない仕事は、今回の様にザンザスに一言口添えして貰い、ベルフェゴールに動いてくれる様に頼むしか無い。
ベルフェゴールとて幾ら我侭な王子とはいえ、ヴァリアーのボスであるザンザスに逆らう気はない様で、その名が出ると大抵は動いてくれる。
それが男を始めとするベルフェゴールの部下達にとって、唯一の救いだった。
「げ、あいついねーの?…仕事長引くじゃん…」
苦々しい表情で呟く少年に、スケジュールを纏めた手帳を懐に仕舞い込んだ男が緩く首を傾げる。
「近日中に何かご予定でも?」
「…ま、あるっちゃーあるんだけど。オマエに関係ねーし」
「は、申し訳ありませんでした」
室内に入る前から既に悪かった機嫌が更に悪化するのが目に見え、男はそれ以上追求しようとはせずに引き下がった。
「相変わらず部下を苛めるのが好きだね、ベル」
苛々を募らせている少年とその斜め後ろを歩く男の、その更に背後から声が掛かり、その聞き知った声にベルフェゴールは首だけを其方へと巡らせる。
「別にー。苛めるも何も、オレ何もしてねーだろ」
「それだけ殺気撒き散らしてる癖に良く言うよ。どうせわざとやってるんだろ」
足元近くまで近付いて来た黒マントを羽織った赤ん坊に、ベルフェゴールは軽く肩を竦めてニィと笑みを浮かべる。
「それだけで苛めてるなんて言われてもなー。ヴァリアーの一員たるもの、殺気のひとつやふたつ、受けても平然と立って然るべきじゃん?」
「ベルの口からそんな言葉が出るとは珍しい。ボスが聞いたら笑い出すんじゃないかい?」
「チビのくせに、ムカツク。で、今回はどんな任務なワケ?マーモン」
「…傍に部下がいるんだから、そっちから聞きなよ。どうしても僕から聞きたいっていうなら、10万」
小さな手を向かって差し出され、ベルフェゴールは札代わりにナイフを持ったままの片手を無造作に振り下ろす。
刃先が皮膚を裂く前に手を引っ込め、マーモンは口をへの字に曲げたままベルフェゴールの前を立って歩いた。
「それじゃ先に行ってるよ。遅れたらそれだけ仕事終わるのも遅くなるし、早くした方が良いだろうね」
クルリと振り返る姿が、忌々しいぐらい小賢しく感じられる。
まるでベルフェゴールの心を見透かしてでもいるかの様だ。
その表情は全く変わらないというのに、何故か笑われている様に思えて、ベルフェゴールは自然と眉を寄せてマーモンを見下ろした。
「何が」
「ハルを待ってるんだろ?」
「…何でオレが手下なんかを待たなきゃいけねーんだよ」
「ベルは気付いてないんだろうけど、此処数日のキミの態度がハッキリとそう叫んでるよ。ハルに会いたいってね」
「馬鹿じゃねーの。勘違い甚だしいんだけど」
険を含んだ声音で吐き捨てると、やや足早にマーモンの背を追い越す。
「図星だね。全くこれじゃどっちが子供か解りやしない」
そのままズンズンと廊下を進んで行く後姿に呆れた様に呟くと、最早何を言う事も無くマーモンも付いて行く。
「本当に。…勘違いで済めば、我々も苦労しないんですがね…」
ずっと沈黙を守っていた、今や完全な置いてけぼりにされた男は、小さく、本当に小さく呟いて肩を落とした。




時計の針が進む度に、ベルフェゴールの機嫌は下り坂を転げ落ちて行く。
それを止められるであろう人物は、未だに部屋に現れる兆しが無い。
何時もならバタバタと慌しい足音と共にやって来るというのに、顔を合わせなくなってもう二週間近く経つ。
ベルフェゴールとしては、別に手下の一人や二人居なくなったぐらいでどうという事は無いが、死んでいる訳でもないのに、何の挨拶も無しに此処まで姿を現さないとなると流石に気にはなってくる。
マーモンにそう言えば、彼曰くそれは建前であって本音ではないだろうとの言葉が返って来た。
「………何なんだっつーの。他に理由なんてある訳ねーじゃん。何が建前だよ、阿呆らしい」
文句を零してみるものの、それに反応してくれる人間は、残念ながら今この部屋には居ない。
マーモンは仕事が終わるなり自室に篭ってしまったし、部下は全て早々に引き上げてしまっている。
特別用事も無いのだから、誰も居なくて当たり前なのだが。
「あー、マジで苛々する」
冠が乱れるのも構わず頭を掻き毟り、ソファの上にだらしなく寝そべり天井を見上げる。
物を片付ける習慣の無いベルフェゴールの部屋は一見乱雑にしか見えないが、掃除だけは使用人がしっかりとしてくれているおかげで塵屑一つ落ちてはいない。
尤も、それはベルフェゴールが新たにゴミを放り捨てるまでの話ではあるが。
そんな部屋だから、天井は輝く程に白かった。
ぶら下がっているシャンデリア以外に飾り気の無い其処をじっと見つめ、不意に浮かんで来た一人の少女の姿に舌打ちして身を起こす。
「ウサ晴らしでもしてくっかなー」
取り出したナイフの刃を指先で軽く弾き、それに合わせて聞こえるキィンと高く澄んだ音にベルフェゴールは軽く目を細めた。
つい昨日も血肉に濡れたばかりの刃には一点の曇りも刃毀れも無く、シャンデリアが放つ光を反射して煌いている。
視界に映るのは冷たい輝きだというのに、先程から脳裏を過ぎるのは彼女の温かい笑顔だ。
それを振り切る様に首をやや強めに振ると、足音も荒く華麗な装飾の施された扉へと向かう。
この辺りの殺し屋や強そうな輩は粗方殺してしまっているが、それでも全く居ないという事はないだろう。
仕事も完全に終えた今、時間はたっぷりあるのだ。
虱潰しに探してみるのも悪く無い。
「どーせ、ハルは今日も来ねーんだろうし」
口を尖らせてそう呟くベルフェゴールは、拗ねた子供そのものな表情をしていた。
もしもこの場にマーモンが居ればすかさず指摘したであろう顔で、そのまま扉を乱暴に開け放つ。
途端、小さな悲鳴が胸元から聞こえて来た。
「?」
軽い衝撃に視線を落とせば、何やら蠢いている姿がひとつ。
ふわふわと揺れるポニーテールに、ベルフェゴールは思わず唖然とした表情を晒して、目の前に立つ少女を見下ろした。
「はひー!良かった、間に合いました!!」
「…ハル。何でそんなボロボロなワケ?」
満面の笑みで抱きついて来る少女の有様に、ベルフェゴールは先程まで抱えていた苛立ちも忘れて尋ねる。
見上げて来るハルの顔のそこかしこに擦り傷が出来ており、目にこそ見えないものの、腕や足にも同じ様な傷があるだろう事は容易に察せられた。
着ている服も、良く見れば所々が薄汚れてしまっている。
「あ、これですか?全力で走ってたら、途中で転んでしまったんです。でも、これは無事なのでオールオーケーです!」
革製の学生鞄から取り出された箱に、ベルフェゴールは再度目を瞬かせた。
濃いグリーンと白のストライプがプリントされた包装紙で、綺麗かつ丁寧にラッピングされたそれを受け取り、無言でハルを見返す。
脳裏に浮かんでは消えていたあの笑顔と全く同じ表情に、思わず口元が緩みそうになった。
「何コレ?」
慌てて気を引き締めて平静を装い、興味の無い素振りで箱を振ると、中で何かがカタリと小さな音を立てる。
大きさからして、アクセサリーか腕時計か…恐らくはその辺りだろう。
「プレゼントです。開けてみて下さい!」
「プレゼント?」
聞き返さずともこの箱の意味するところは解ってはいたが、待っていたと思われるのが嫌で取り敢えずとぼけ通す事にする。
案の定、ハルは気付かずに目を輝かせて大きく頷いた。
「ハッピーバースデーです、ベルさん!」
にこにこと嬉しそうな彼女の表情を間近で見るという事がどんなに心を騒がすのか、この時ベルフェゴールは嫌と言う程痛感させられた。
「ん、今日だっけ?」
我ながら白々しい台詞だと思うものの、人を疑う事を知らないハルは言葉を額面通りに受け取ったらしい。
驚いた様に口を開くその様が事前に予測出来、ベルフェゴールは思わず表情を崩してしまう。
「はひ。そうですよ!ベルさんの部下さんにお聞きしたので、間違いないです!」
「ふーん」
当然だ。
何せ誕生日をハルへそれとなく教える様に命令したのは、他ならぬこの自分なのだから。
自信満々に胸を張るハルへ気の無い返事をし、ラッピングを手早く外して行く。
10秒と経たずに現れたのは、銀色の薄型腕時計。
見た目も値段も申し分ない、そんなプレゼントだった。
「…ハルにこれが買えるとはなー」
確か軽く十数万はする代物だ。
果たして一介の女子中学生の小遣い程度でこれが買えるだろうか?
僅かな疑問と共に箱から取り出すと、答えは早々に出た。
「あ、ハルバイトしてたんですよ。二週間、短期集中型のバイトだったんですけど、貯金してたお小遣いと合わせて漸くそれが買えたんです」
「………バイト?」
「はひ。サンタクロースの格好して、ケーキの販売をしてたんです!クリスマス用のケーキで、これがまた凄くデリシャスで…」
「二週間も顔出さなかった理由はそれ?」
「はい。どうしても時間が取れなくて」
「別にいらねーのに、こんな安モン」
態とケチを付けてはみるものの、どうにも嬉しくて仕方が無い。
「はひ!なら返して下さいっ」
「ししっ。やーだね。手下の癖に王子待たせてんじゃねーっての。罰として、これは没収な」
「だからハルは手下じゃありません!ベルさん言ってる事、滅茶苦茶ですよ!?」
取り返そうと伸びてくる手を掴み、腕時計を遠くに掲げて笑う。

「いーの。だってオレ王子だもん」

結局ベルフェゴールがハルに対して礼を言う事は無かったが、その日より彼の左腕には銀色の腕時計が輝いていたという。
それを知るマーモンは、呆れた様に仕事の相棒を見ていたとかいないとか。







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