渦中な人々
器用に動く長い指先と、重い物でも割りと簡単に持ち上げる腕。
そして複数の物を掴む大きな手の平に、ハルの視線は釘付けだった。
「…ハル」
「はひ」
「ウチの手がどうかした?」
「はひっ!?」
何時の間にかドライバーをクルクルと操っていた指先が止まっており、それでも尚、彼にしては珍しい素手を見つめていたハルは、スパナの声に我に返って顔を上げた。
「あ、すみません。お邪魔するつもりじゃなかったんですが」
「うん。別に邪魔じゃないけど、凝視してたから何かあるのかと思って」
工具箱にドライバーを戻す仕草を視線で追い掛け、ハルは小さく首を横に振る。
「いえ何かって訳じゃないんですけど…」
「ん。けど?」
「スパナさん、ちょっと手を見せて貰えますか?」
「?」
スパナの返事も待たず、ハルは両手で青年の片手を掴むと、顔を近付けてまじまじと手の平を眺め始めた。
時折、皮膚の厚さを確かめる様に指先でつつかれ、大きさを比べる為か自分の手の平とスパナのそれを合わせたりしている。
理解不能な少女のその行動に、しかし特に何を言う事も無く、スパナは黙って付き合う事にした。
「はひ」
漸く彼女が満足したのは10分も過ぎてからの事で、その間中ずっと、スパナの右手はハルの手中にあった。
「やっぱり大きいですね。ハルの手とは全然違います」
「そりゃ身長からして違うんだから、当たり前だ」
「そうなんですけど、何だか凄いです。憧れます」
ほぅと感嘆の溜息を洩らすハルは、何処か夢見心地な表情をしている。
不思議な少女だと、スパナは視線をハルの両手に落した。
成る程、自分とは違う小さな手の平をしている。
その白い肌を眺めていると、ついつい手の平を合わせたくなるのも納得出来た。
自分には持ち得ない何かに憧れるというのは、誰しも一度は経験しそうなものだ。
それに当て嵌まらない人間もいる事はいるが、大抵は羨望の情を持つものだろう。
彼女と同じ様に、ハルの手の平を観察したい衝動がスパナの中で湧き上がる。
尤も、此処で迂闊に彼女に触れると、学ランの少年やティアラの王子や正一が煩そうなので、敢えて手は出さないでおくが。
「スパナさん、ハルの手と交換しませんか?」
「いや、無理だし」
「スパナさんぐらいの大きい手なら、ハルも色々出来そうな気がするんですよね。もっともっと、皆さんのお役に立てるかもしれません」
「…手だけ交換しても、見た目的に凄く不気味な事になると思う」
ハルの身体に到底似合わぬ自分の手を見遣り、スパナは飴を銜えながら小さく笑った。
「それに、アンタの手にはアンタの良いところがあるんだから、勿体無い」
「はひ?ハルの良いところ、ですか」
「ん。料理を上手く作ったり、美味しい日本茶を淹れてくれたり、色々あるよ。これは手だけに限った話じゃないけど」
「そう…でしょうか」
「特に料理は、ウチには出来ない事だから凄い事だと思う」
胡坐を掻いた膝上にノートパソコンを乗せ、正一の提案したプログラムの構成要素データを書き込んで行く。
カチャカチャとキーボードを叩く指先を見つめ、それまでスパナの言葉を反芻して考え込んでいたハルは、今度は指先からその持ち主へと視線を上げた。
「スパナさんって、大人ですね」
「ん?」
「やっぱり、スパナさんは凄い人です。ハルに元気を下さいました!」
ディスプレイから視線を逸らせば、嬉しそうな笑顔と直接ぶつかる。
「…ん」
一瞬だけ高鳴った動悸に、スパナは直ぐにノートパソコンの画面上へと目を戻した。
「アンタより年だけは食ってるからな」
言葉は何時も通りの淡々とした口調で紡がれるというのに、何故か指先に微かな電流が走ってしまい、目的のキーを打ち損じてしまう。
慌てて打ち直すものの、二度、三度、別のキーを叩く羽目になり、スパナは息を吐いてノートパソコンを閉じた。
真横にいる少女をチラリと見遣れば、彼女は真っ直ぐに此方を見つめている。
ともすれば錯覚しそうになるその視線。
正一が不安を覚えるのも当然と言えるそれに、スパナは小さくなりつつある飴を銜え直した。
「またこうして、時々お邪魔しても良いですか?その、御飯を運ぶ以外に…」
「ウチは構わないけど」
「はひ、有難う御座います!」
ハルは再びスパナの右手を両手で握り、感謝の笑顔で頭を下げると、片付けに来た食器を持ってご機嫌な表情で部屋から出て行く。
「………」
その後姿を見送り、スパナは己の右手を見下ろす。
「心臓に悪いというか、何というか…」
彼女に惚れていると思われる少年達の気持ちが何となく解り、スパナは床の上に引っくり返って、先程までハルが触れていた右手を目の上に掲げた。
自分とは全然違う、柔らかい少女の手の感触を思い出し、飴を銜えた状態のまま、そのまま手の甲にそっと口付ける。
指先を走り続けている電流の痺れが、ほんの少しだけ強くなった気がした。