きっかけなるもの






「ハル」





その一言で目が覚めた。


「……」
身体を起こそうとすると激痛が全身を駆け抜け、余りの衝撃に呻きが口から漏れた。
「…う、…っ」
「寝てなよ」
頭上から降ってきた声に視線を其方へと移す。
涙が滲んでいるせいで視界は相当にぼやけている。
けれど、自分を見下ろしてくる鋭い視線が誰のものなのかは直ぐに解った。
「ヒバリ、さん…?」
どうして此処にいるのか。
いや、そもそも此処は何処なのか。
戸惑いが多分に含まれた声音に、男の眉が僅かに上がる。
「二度も言わせないでくれる?」
再び起き上がろうとしたのを察したらしく、雲雀が溜息を漏らした。
同時に片手が伸びてきて、僅かに浮き上がった頭を押さえつけられる。
そこで初めて、自分が今横たわっているのは柔らかなシーツの上だと解った。
「ここ…」
声が掠れて自分でも聞き取りにくい。
しかし相手は聞き取れたらしく、近くに置かれていた椅子へと腰かけながら答えてくれた。
「僕の家」
簡潔に述べられた答えに、思わず目を見開いて相手をまじまじと見てしまう。
「え…、なんで」
やはり聞き取りづらいが、先程よりはややマシな声が出た。
「なんでハルは、ヒバリさんのお家にいるのでしょう…?」
「覚えてないの」
すぐさま切り返された質問に、ハルは首を傾げて考え込んだ。
此処で起きたという事はつまり、寝ていた事になる。
では何故寝ていたのか。
普通にベッドに入って寝たのではない事は確かだ。
だって自分は、確か――。


「あ…」


そうだ。
確か、ツナに頼まれて買い物に行ったのだ。
午後の定番となっている、ティータイム。
今一番皆に親しまれている茶葉が切れてしまい、それを買いに出たのだった。
ツナの命令で動く数人の部下が、身辺護衛の為に一緒についてきてくれた。
ボンゴレファミリーはマフィア界でも今一番有名な為、ボスであるツナ程ではないにしろ、ファミリー全員が常に命の危機に晒されている状態だ。
山本や獄寺の様に自分で自分の身を守れる者であればともかくとして、ハルはその手段を持たない為、外出時は大抵が護衛と一緒に動く事になる。


「ハルは…」


紅茶を。
そう、何時もの店で何時もより少し多めの量を購入したのだ。
封が施されていても微かに葉の香りが漂う缶を大量に抱え、車に乗り込んだ。


「それから、…えっと」


徐々に思い出される記憶。
何故か、右手が微かに震え始めた。
雲雀は黙ったまま、じっと此方を見つめている。


「お屋敷に戻る途中、車が――」


缶の入った袋を横に、上機嫌で窓の外を流れる景色に視線を移す。
陽光が降り注ぐ良い天気で、道行く人々も楽しそうにお喋りに興じている。
とても和やかな光景に目元を綻ばせた瞬間、穏やかな時間に終止符が打たれた。
突然フロントガラスに亀裂が入り、続いて銃声が耳に飛び込んできたのだ。
そして横転。
防弾仕様のガラスもこれには流石に耐え切れず、粉々に砕け散るのを目の端に捉える。
紙袋から放り出された缶が宙に浮き、身体へと落下してくるのが感じられた。
朦朧とした意識の中、それでも辛うじて動く右手で懐を探る。
ヌルリとした感触から、自分は今出血しているのだと解った。
それも相当な量ではないだろうか。
痛みは感じられないが、胸の中心が燃えるように熱い。
少しでも気を抜けばとびそうになる意識を何とか奮い起こし、更に奥を探ると銃器を取り出す。
護身用にと贈られた、一度も使った事のない武器。
やけに冷たく、鈍く光るそれをしっかりと握り直す。
今や頭上に位置している、ガラスのない窓へと照準を向けながら、霞む目を何度も瞬かせ。
そして、現れた見知らぬ人影に向かって引き金を引く。
轟音が耳を劈いた。


「…あ…」


思い出した。
瞬間、右手の震えが酷くなる。


「ハルは……人、を……」


あれは間違いなく敵だった。
敵対しているファミリーにせよ、彼等に雇われた殺し屋にせよ、どちらも自分にとっては紛れも無く敵だ。
しかも、相手は確実に自分を殺そうとやって来ていた。
だからあれは正当防衛でもある。
そうと解ってはいても、初めて人を殺したという罪の意識は薄れる事なく圧し掛かってくる。
この世界に身をおくと決めた時から覚悟はしていた。
しかし実際に手を下した感覚というのは、思った以上に残酷なものだった。
右手の震えは全身にまで伝わり始め、じっとりとした冷や汗と世界が揺らぐ奇妙な浮遊感に襲われる。

恐怖が身体を支配する寸前、唇に柔らかな感触が触れた。

「…はひ?」
自分でも間抜けとしか言い様のない声が漏れた。
先程まで感じていた恐怖感なんて吹き飛んでしまうぐらいの、酷く甘い感触だった。
「ヒバリさん!?」
その正体が何か解った瞬間、ハルの顔は一気に火を噴いた。
「何」
瞬時に赤く色を変えた目の前の顔色を冷静に眺め、何時もの如く憮然とした表情で雲雀は応える。
「何、って。何って今!今…何、を」
寝そべった状態のまま、あわあわと慌てるハルから身を離すと、雲雀は不意に視線を扉へと向けた。
やけに慌しい足音が複数。
騒々しい音を立てながらも確実にこの部屋へと近付いて来ている。
ハルがその音に気付く前に、雲雀は既に窓辺近くへと移動していた。
両腕を組んだ状態のまま、背を窓へと預けた格好で招かれざる客人を出迎える。


扉を蹴り開ける勢いで中へと入って来た客人達は、家主への挨拶もなくベッドへ身を横たえるハルの元へと群がった。

「ハル!」
「大丈夫か?」
「ったく、だからあれだけ買い物は部下に任せろって――」
「いや、獄寺君。あれは僕が頼んで…」
「まー、無事で良かったよな」
「怪我してるんだから、無事って訳でもなさそうだけど…」
突然現れては各々好き勝手に喋る仲間達に、ハルは思わず噴出してしまった。

「でもさぁ、ビックリしたよ。まさかヒバリさんの家にいるなんて」
ファミリーのボスという立場にいる者とは思えない、しかし昔と同じく仲間思いのツナの言葉に皆が一斉に頷く。
「ハルも驚きました。目が覚めたら此処にいましたし。ねぇ、ヒバリさ―――あれ?」
ヒバリに視線を移そうと窓辺へと顔を向けると、其処には風に揺れるカーテンがあるのみ。
先程まで窓辺に佇んでいた姿は何処にもなかった。
「ヒバリさん?」
名を呼んでみるも、返事があるはずもなく。
「あいつなら、さっき出てったぜ」
山本が親指で扉を示す。
「何か、群れるのがどうとか呟いてたっけな」
「あー…」
納得顔のツナ達は、思わず顔を見合わせてしまった。
今も昔も、雲雀は群れる事を嫌っている。

「そういえば、皆さんはどうして此処に?」
「うん、ハルが襲撃を受けたって連絡が来てさ。山本が偶然現場近くにいたから頼んで見に行って貰ったんだ」
ツナがチラリと山本を見ると、話を継ぐ様に今度は山本が口を開く。
「ま、俺が着いた頃にはもう他の連中が後片付け始めてたけどな。幸いこっちにゃ死人出なかったってんで、取り合えずは怪我した奴ら病院に運んだのを見届けてきたんだが…」
「ハルの姿だけが無かったんだよねぇ」
だから探し回ったんだよ、とツナは笑った。
「はひ…そうだったんですか」
身内には死人が出なかった。
その事に少しだけホッとする。
敵側の情報は出ないが、恐らくはツナ達が配慮して口に出さないだけなのだろう。
人を殺した恐怖感がじわじわと再び湧き出てくるが、それを打ち消す様にして口元に甘い痺れが走る。
同時に、先程間近で見てしまった雲雀の顔を思い出す。

「ま、詳しくは後でヒバリさんに聞くとして……って、ハル。顔赤くない?大丈夫?」
「だ、大丈夫…です」
心配そうに覗き込んで来る面々に曖昧に頷いて見せたものの、顔からはなかなか熱がひいてくれない。


あれはやはり…キス、なのだろうか。


「まだ怪我も治ってないのに、煩くして御免な」
謝罪するツナの声が耳を素通りしていく。

どうして雲雀が、自分にキスなんかするのだろう。
いや、そもそもあれは本当に現実にあった事なのだろうか。
ひょっとしたら、自分は夢を見ていただけなのでは…。

そんな疑問が頭の中をグルグルと巡って頭を悩ませる。




やがてツナ達が帰り、雲雀が再び姿を現すまでハルは一人悶々とし続けていたのだった。







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