綺麗に歪んで砕け散る
部屋の扉が開く。
ギィィと、真新しいこの部屋に不釣合いな程の軋み音に、ハルは虚ろな視線を向けた。
静かに閉められた扉の前に立つのは、白い人間。
ゆっくりと近付いて来るその人物へ、ハルは縋る様に両手を伸ばす。
「何処に行ってたんです、か…」
掠れた声でしがみ付くと、冷たい手の平が優しく頭を撫でて行く。
「ん、ちょっとね」
胸が痛い。
薄い皮膚の下にある心の臓がキリキリと悲鳴を上げている。
「何処ですか」
ハルの顔が醜く歪む。
泣きそうな程の痛みに、彼の背中へと回した両手に力が篭る。
恐ろしい程の独占欲と嫉妬が、ハルの全身を苛んでいた。
「…内緒」
「………」
少し困った様な表情で、彼が笑う。
もう頭を撫でて貰う程度では、この激情は治まりそうに無い。
「ユニさんの所、ですか」
一番言いたくなかった台詞を口にすると、彼の手がピタリと静止した。
見事な位に動かなくなったその感触に、自分の予感は当たっていたのだと確信する。
「そうなんでしょう?白蘭さん」
「…違うよ」
ワンテンポ遅れた返事は誰の為か。
「嘘つき」
「違うよ。ハル」
「白蘭さんは、嘘つきです」
更に腕に力を篭める。
自分の前から決して消えない様に、彼が離れてしまわない様に。
あの人の所へなど、行かせたくない。
否、行かせない。
絶対に。
何せ自分は、ボンゴレファミリーを裏切ってまで、ミルフィオーレファミリーを選んだのだ。
全てはこの人―――白蘭の為に。
「白蘭さん、白蘭さん…」
「うん。ハル、此処に居るよ。僕は何処にも行かないから」
「約束…して、下さい」
「するよ。幾らでも。君の為なら、何回でもする」
「ずっとずっと、ハルの傍に…他の人の所へなんて行かないで…」
「うん」
「…嘘、つき…っ」
自分が余りにも惨めで、悔しくて、涙が止まらない。
何故この人を選んでしまったのか、今でも解らない。
こんなにも苦しい思いをしてまで、どうしてあの優しかった人々を裏切ってしまったのだろう。
何もかも、全てを捨ててまでついて行くだけの価値が、果たして本当にこの人にあったのだろうか。
「泣かないで?ハル」
優しい声、優しい抱擁。
どうあっても白蘭から離れられないこの自分。
あぁ、もしかしたらこれは、この苦しみは、他の人々を傷付けて来た自分への罰なのかもしれない。
仲間を裏切った、その代償なのかもしれない。
元に戻りたくても二度と戻れず、そして戻りたいという気さえ起こらない、この自分への。
「ハル、愛してるよ」
どうしようもなく優しく聴こえる声に、ハルは泣きながらただそっと目を閉じた。
背後に立つ気配に振り返ると、一番の部下が其処に立っていた。
「あれ。正チャン、ひょっとしてご機嫌斜め?」
あからさまに不機嫌な表情を浮かべている彼に笑いかけると、正一は何処か苛立たし気に口を開いた。
「何時まで、ああやって彼女を騙しておく気ですか?」
正面きってぶつけられた台詞に、白蘭の口元に笑みが広がる。
「何の事かな」
「とぼけないで下さい」
「盗み聞きは良くないよ?正チャンらしくもない」
軽口で返すと、正一の目がますます険の色を帯びた。
「ハルが苦しむのを承知でやっている貴方に言われたくありません。一体何時まで、ああして嘘を吐き続けるつもりなんですか」
「やだなぁ。嘘なんて一つも吐いてないでしょ、僕は」
「でもハルは誤解したままでいる。貴方がユニの元に通っていると、そう思い込んでいる心を利用しているでしょう」
「僕はちゃんと違うって言ってるんだよ。それでも信じないのは、ハルの方だからね」
「いい加減、本音で話されたら如何ですか」
一歩詰め寄る青年の姿に、白蘭は思わず噴出しそうになる。
まさか、此処まで馬鹿正直に詰られるとは思わなかった。
恐らくはそれ程に、この青年もハルの事を気にかけているのだろう。
「貴方は態と誤解させて、ハルの嫉妬を煽っている。それは、ハルが貴方から離れない様にする為ですか?」
「正チャンに隠し事は無理かな?」
「答えて下さい、白蘭サン」
正一の目に必死の色が見え隠れしている。
だからこそ、白蘭は殊更にゆっくりと頷いて見せた。
青年を焦らす様に、のんびりとした仕草で。
「そうだよ」
「……どうして、そんな真似を…。そんな事をしなくても、ハルにはもう帰る場所なんてないのに」
「うん、そうだね。でも、それだけじゃ不足なんだ」
「不足…?」
「そう、不足。ハルには僕と同じ位、僕の事を考えて欲しいんだ。他の人と話をするだけで嫉妬する位、他の何も目に入らない位に、ね。僕だけが彼女の世界の全てであり、僕だけが彼女の心を支配する存在となる様に。もっともっと、僕の事だけで一杯になってくれないと、そのぐらいしないと駄目なんだよ。解る?正チャン。だから、今の状態じゃ、まだまだ満足出来ない」
「それは…でも、何もあんなやり方でなくても…」
「あれが一番早い道のりなんだよ。僕がユニの事も気にかけているとハルが誤解してくれれば、それだけでハルは心配になる。自分が捨てられるんじゃないかと、その心は恐怖で満たされる。そうなれば、自然とその分だけ僕への執着が増す」
「錯覚を、利用するんですか」
「うん」
「ですが、それは単なる執着で終わる可能性もあります。この先一生、ハルは白蘭サンを愛するのではなく、執着し続けて終わるという事も…」
正一の強張った表情が、とても愉快だった。
如何にして白蘭の気を変えようと躍起になっているのかが解るだけに、此方の返答ひとつで段々と青くなっていく様が目を楽しませてくれる。
「あぁ、それは構わないよ」
「な…」
アッサリと言い放った言葉に、案の定正一は唖然とした顔で動きを止める。
「執着でも何でも、ハルの目が僕以外に向けられなければそれで良い。第一、執着も愛情も、その想いに然程違いはないと思うんだよね。向けられる感情の質は全く同じなんだから」
「それは…そうかもしれませんが…。でも、あれではハルはこの先ずっと苦しみ続ける事になります」
「だから?」
「だから…って、白蘭サンはそれで良いんですか?」
「良いも何も、さっきから言ってるでしょ。ハルの目が僕だけに向けられれば、それで良いって」
「………」
「ハルが苦しめば苦しむ程、僕への執着が増すなら、僕は喜んでこれから先も彼女を苦しめ続けるよ?」
にっこりと綺麗な笑顔で言葉を紡ぐ相手に、正一はもう何も言う事が出来ず、静かに口を閉ざして黙した。
白蘭という男に捕まってしまった、哀れな存在の行く末に心を痛めながら。