狂うもの
「ヒバリさん!見て下さい、凄い満月ですよー」
ハルは嬉しそうにクルリと踵を返して、片手を大きく頭上に掲げた。
既に夜の帳が下りている天空には、燦々と輝く白い月。
その周囲には星も瞬いているというのに、圧倒的なまでの月の存在感がそれらの光を打ち消してしまっている。
ハルが真っ直ぐに伸ばした手の平、そして指先に降り注ぐ光の粒子に目を細め、雲雀は小さく息を吐いて視線を逸らした。
先程から妙に頭が重い。
特に何処が痛い、苦しいという訳ではないのだが、ただやけに身体が火照った感覚に苛まれている。
応接室を出た辺り…いや、校舎を出た頃からだろうか。
ふと落とした視線が、自分の足元に蹲る影に吸い寄せられる。
普段は煤けて見えるアスファルトの歩道も、月光のせいか今日は白く輝いて見えた。
「ヒバリさん?」
返事が無い事に焦れたらしく、ハルが不思議そうな表情で此方を見ている。
その、白い顔。
神聖な気配すら纏わせた、月の光を取り込んだかの様なその瞳の色。
ドクリと、心臓に血が通う音が聞こえた。
「ヒバ――はひっ?」
不意にハルの腕を引っ張り、そのまま強く抱き寄せる。
素っ頓狂な声を上げた少女の、驚いた顔を指先で上向かせると、今にも口付けが出来そうな程の距離まで顔を近付けた。
「あ、あの…あの、ど、どうしたんですか?」
慌てた口調、何時も通りの彼女の姿。
それなのに、一体何故、これ程までに侵し難い雰囲気を醸し出しているのだろうか。
「………」
「ヒバリ、さん?」
何時まで経っても離れない腕に、微かに怯えの色がちらつく。
―――あぁ、そうか。
体調が崩れ始めたのは、恐らく外に出た時からだ。
頭上を遮る物が何も無い空間に立ったあの瞬間、月の光を直接浴びたあの時。
あれから徐々に、自分でも気付かない内に、身体に異変が起こり始めていたのだろう。
「月、か…」
何かの書物で読んだ事はあるが、馬鹿げた事だと特に気にも留めなかった。
実際、今までに幾度と無く月光を浴びてきたが、何の変わり映えもしなかったのだから。
それが今日に限って、どうにも意識がグラつくぐらいの激しい変化を齎している。
どうしてか等と、考えるまでも無い。
原因は間違い無く、今この腕の中にいる少女だ。
「三浦」
「は、はひ…何でしょう」
覗き込んだままの顔が、緊張で完全に固まっている。
それでも律儀に返答だけは返す、そんな彼女がとても可笑しい。
「満月は人を狂わせるという一説を知ってるかい?」
「く、狂…?」
戸惑いの表情にクスリと笑いを零すと、両手で少女の顔を挟んで唇を落とした。
初めて触れる柔らかな感触が、背筋が震える程の快感を運んで来る。
侵してはならない領域を汚した、そんな残酷な喜悦感。
彼女に纏いついていた神聖な光を払い除ける様に、何度も角度を変えて唇を啄ばんだ。
「月なんかにはやらない」
呼吸が上手く出来ず、反射的に逃げる唇を追い掛けて小さく呟く。
しっかりと捕まえた顔に再び唇を寄せ、その吐息すら奪わんばかりの口付けを施した。
彼女から神聖な気配が薄れる度に、嫉妬という名の、身体の熱も静まって行くのを感じ取りながら。
月の光を浴びた自分が狂ったのか、月の光を纏った彼女が狂わせたのか。
恐らくは、その両方。