見えずして言えぬまま聞く事も無く






カシャン。

小さいながらも透明度の高い音が、ハルの耳を劈いた。
床の上に落とした視線は、細かな粒をばら撒いている壊れた砂時計に止まる。
「…あ」
遅れて喉の奥から漏れた声は、どうやら無意識に出た様で、普段の彼女からは有り得ないぐらい、低い低い音を模していた。
「壊れてしまいました…」
そっと床の上に屈み込むと、砕けたガラス片に指先を伸ばす。
チリリとした痛み。
スゥと入った一直な赤い線に、ぼんやりとした視線を落とす。
線は直ぐに円く膨らんで、左右に砕けて落ちる。
そんなつもりは無かったのだが、深く切ってしまったのだろうか。
パタパタと床に零れる血の雫は、勢いこそ緩いものの、どうにも止まりそうに無い。
神経が次第に痛みを訴え始めたが、ハルは自分の指先を見つめたまま、一向に動こうとしなかった。

「三浦」

頭上から掛けられた声に視線を上げれば、目の先に見覚えのある学ランが見えた。
シュルリ、と乾いた衣擦れの音と共に、声の主もまた屈み込む。
「素手で掴もうとするなんて、馬鹿だよ」
冷たい台詞とは裏腹に、指先を持ち上げるその手はとても温かい。
視界に入るのは、黒い色。
黒い髪に黒い双眸。
日本人では当たり前の持ち色かもしれないが、彼はまた別格の色合いを出していた。
もしかしたら、彼の存在がそんな風に魅せているのかもしれない。
「痛みは?」
静かな問いかけに、ゆっくりと頭を左右に振る。
正面をずっと見ているのが妙に虚しく感じられて、視線を再び指先に戻した。
血は、やはり止まらない。
床の上に出来た小さな小さな赤い水溜りが、どうしようもなく汚らしく見えて顔を歪める。
「そんな顔をしておいて、痛くないって言われてもね」
ふとした溜息に、ハルはもう一度頭を振った。
「違うんです。痛いのは、指ではありません」
まるで大根役者の様な棒読みだ。
それが自分でも解っているからこそ、言葉が続けられずに口を噤む。
「…それじゃ、何処が痛むの」
―――何処?
与えられた言葉を頭の中で反芻して、その意味を理解した瞬間、奈落の底に落ちる様な感覚に苛まれた。
「ヒバリさん」
「何?」
「ハルは………」
「うん」
「ハルは、どうして此処にいられるのでしょう?」
「………」
これは彼にとって、恐らく馬鹿げた問い掛けでしか無い。
それでも、時折不安で仕方が無くなるのだ。
自分と彼の住む世界は、余りにも違い過ぎるから。
一瞬であれば、気付かないで済ませられる。
けれど、傍に居る時間が長ければ長い程、その差異に愕然とするしかない。

あぁ、そうだ。
これは、嫉妬だ。
一人置き去りにされる、そんな絶望感が、彼と彼の世界に嫉妬するのだ。
だからこそ、自分の血があんなにも汚れて見えてしまうのだろう。

「君は、馬鹿だね」
「はい」
「…本当に、馬鹿だよ」
もどかしい想いが伝わって来る。
どうすればこのジレンマを潜り抜ける事が出来るのだろうと、彼が想いを巡らせているのが解った。
「すみません」
「良いから、手当てするよ。おいで」
手を引かれるままに立ち上がると、足元で小さな粒が砕ける音がした。
一緒に居たいからこそ、その気持ちが強いからこそ、この隔絶とした感覚は恐らく永遠に無くならないのだろうと、床に映える赤黒い色を見て、ハルはそっと瞼を落とした。







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