迎えるもの
白を基調とした着心地の良い布地に、流れる様にして薄桃色の華文様が描かれている。
この日の為に、従姉妹に相談して選んだ一張羅の振袖を身に纏い、ハルは姿見の前で何度もくるくると駒の如く回転して自分の姿を眺めた。
「はひ、これで良いのでしょうか」
わざわざ着付け専用教室に通って習ったものの、自分一人の着付けは初めてなので今一自信が無い。
教室の先生には褒めて貰える程の技量があり、自然体で見れば全くおかしな所等無いというのに、それでも不安は波の様に後から後から押し寄せて来る。
それは多分に、これから会う相手の為に他ならなかった。
「うぅー…」
まじまじと鏡を見つめ、己の顔に両手を当てて頬をピタピタと軽く叩く。
「お化粧…した方が良いんですよね。やっぱり…」
元々色白の染み一つ無い綺麗な肌をしているので、化粧の必要は全く無いのだが、それでも少しでも綺麗だと思って欲しい。
そんな気持ちがハルを姿見の前に留め置いている。
「ハル、もうそろそろ約束の時間じゃないのかね?」
何時まで経っても出掛ける様子の無いハルに気付き、父親が驚いた様に娘へ声を掛ける。
「はひ!?」
「もう22時だぞ。後16…15分40秒で」
正確な時間を告げる父親に、ハルもまた壁に掛かっている大きな銀製の時計を見上げた。
父親の言う通り、時計の針は21時45分辺りを示している。
鏡に張り付いてから、既に4時間が経過していた。
「はひー!遅れちゃいます!!」
絶叫すると同時に慌てて出掛ける準備を始める娘の姿に、父親は小さく息を吐く。
「車で途中まで送って行こうか」
「大丈夫!走っていけば間に合うから!!」
玄関口から聞こえる声と草履を履く音、その後に届いた扉に頭をぶつけたであろう悲鳴に、気苦労の絶えない父親は再び深い溜息を吐き出し、飛び出して行った娘を見送ったのだった。
15分もの間全力疾走すれば、着物も結わえた髪も乱れない訳が無い。
4時間を掛けて今までで一番綺麗な自分を目指して飾り立てた努力は、たったの15分で見事にも崩れ去ってしまっていた。
ゼーハーと息を切らして辿り着いたハルを見下ろし、雲雀は着崩れてしまったハルの全身を無言で眺める。
「………」
「す、すみません…」
確か去年の夏にも同じ様に謝った覚えがあると、ハルはふと思い出した。
恐らくは雲雀も同じだったのだろう。
クスリと小さな笑いが少年の唇から漏れる。
「君はそんなに走るのが好きなのかい?」
「はひ、そういう訳じゃありません!」
「ふぅん。その割りには、何時も走ってる気がするけど」
「それは、その――…」
「まぁ、別に良いよ。遅れて来るよりは断然マシだしね。それよりも時間が惜しい。行こうか」
普段通りの学ラン姿で、雲雀は黒い衣装を翻すと、背を向けて先に立って歩こうとする。
対するハルは自分の今の姿を見返し、思わず手を伸ばして学ランの裾を掴んで引き止めていた。
「何?」
「あ、その…ハル今こんな格好なんですが、大丈夫でしょうか…」
「どういう意味?」
「えっと、ヒバリさん、一緒に歩いてて恥ずかしくないかなって」
中途半端に解けてしまった髪を下ろし、ぼさぼさの毛先に手串を通すハルに、雲雀の静かな吐息が聞こえて来る。
「君は気にするの?」
「あ、はい。一応…」
ゴム痕の残る髪の毛を押さえていた手を離し、緩んでしまった前合わせを出来る範囲で直す。
着物の隙間を埋める為の、詰め物を一切使っていなかった事が不幸中の幸いだ。
あんなものがボロボロと振袖の中から零れては、もう目も当てられない。
「君がどういう格好をしてようと、僕は気にしない」
少しでもまともな衣装へ戻そうと、懸命に着物を直すハルの様子を見遣りながら、雲雀は素っ気無い口調で返す。
「は、はひ…」
それはつまり、全く興味が無いと言う事なのだろうか。
雲雀に会いに行く度に頑張ってお洒落をしていただけに、今の言葉はハルを落胆させるに充分な威力を発揮した。
自然と、振袖の帯を直す手も止まってしまう。
そういえば、一度として服装を褒められた事は無い。
逆に貶された事も無い。
綺麗な衣装を纏っても、ボロを着ていても、恐らく言葉通り雲雀は気にも留めていなかったのだろう。
ガックリと肩を落として落ち込むハルに、雲雀は再び背を向ける。
「何を着ていようと、君は君だからね。服装だけで人が変わる訳でもないんだし、気にする必要なんてないでしょ」
アッサリとそう言い放ち、今度こそ歩き出してしまった少年の背中を、ハルは暫し間の抜けた顔で見つめた。
が、一向に立ち止まる気配の無い雲雀に、慌ててその後を追い掛ける。
嬉しいやら寂しいやら、何とも複雑な心境にハルの顔がぐにゃりと歪む。
漸く横に並んだ少女の表情に、雲雀が不審気に目を細めた。
「それでも、お洒落した時ぐらい、少しは誉めてもらいたいものですよー…」
大分遅れてボソリと囁かれた言葉に、くだらないと言いたげな雲雀の視線が刺さるも、どちらかと言えば嬉しさの方が大きい今のハルには通じない。
今までの苦労を全く意に介されもしなかったのは少々悔しいが、それでも自然体のままで良い、着飾る必要は無いと言われるのはとても嬉しいものだ。
それが好きな相手であれば尚更に。
既に残り2時間を切ってしまっているが、今年最後を過ごすのがこの人で良かったと、心の底からそう思う。
が、のほほんとした思考は、急に寒くなった右肩に打ち切られた。
視線を向ければ、それまで隣に居た筈の少年の姿が見えない。
「はひ、雲雀さんどちらへ?」
道行く人々の大きな流れに乗らず、脇の道へと逸れ様としている雲雀を見つけ、ハルは小首を傾げて、大通りと入り掛けている小道とを見比べる。
毎年大勢の参拝客が訪れる神社へ続く大通りとは違い、雲雀が選んだのは草茫々の荒れ果てた小さな社がある道だ。
「新年早々、草食動物を血祭りにあげても構わないなら、向こうの道を選んでも良いけど?」
もしやと思う暇も無く、トンファー片手に目を光らせるその姿に、ハルは大人しく誰も通らない小道を選択した。
去年の夏祭りの時の様に、雲雀が人の群れの中に居ても大人しく付き合ってくれる事は極々稀な事だ。
特に今回は明日が元旦という事もあって、夏祭りの比ではないぐらい多くの参拝客が神社に詰め掛けている事だろう。
何より群れる事を嫌う彼にしてみれば、まさに目の前に獲物をぶら下げられた状態。
そんな所へ連れて行こうものなら、それこそ彼の言う通り、血飛沫の舞う年明けになってしまいかねない。
彼をあの人波に放り込む勇気は、とてもではないがハルには無かった。
「御神籤とか破魔矢とか、色々買いたかったなぁ…」
誰とも擦れ違わない小道を歩きながら、ハルは小さく呟く。
街灯のおかげで明かりに不自由しない大通りとは違い、此方の小道は月明かりだけが頼みの綱だった。
誰の手入れも無い雑草が、只でさえ見えない足元を余計に暗く翳らせている。
振袖に草履という格好のハルにとって、なかなかに歩き難い悪路だ。
「御籤なら、この先の社にもあるよ」
「はひ、本当ですか?」
「こんな事で嘘を吐いてどうするの」
思いがけず間近で聞こえた声に、今まで必死で見ていた足元から視線を上げると、直ぐ目の前に雲雀が左手を出して立っていた。
「………」
「………」
差し出された手にキョトンとしていると、向けられていた目が薄く細められる。
「必要ないならいい」
無表情でそのまま引っ込められようとする手に慌て、ハルは飛びつく様にして右手で握り返した。
「ひ、ひひ必要です!」
「そう」
引っくり返った声に、しかし雲雀は表情を変える事なく、ハルの手を引いて歩き出す。
自分の掌より幾分低い温度を直に感じ、ハルの心音が数拍高まった。
雲雀といると何時もこうだ。
勝手に舞い上がって勝手に落ち込んで、けれどその後には必ず前よりもっと好きになっている。
どんどんどんどん、好きになって行くのだ。
際限の無い感情に、時折どうしようもなく苦しくなるけれど、それでも想う事は止められない。
それはもう理屈や理論では打破出来ない、どうしようもない感情だ。
自分は一体何処まで、この少年を好きになってしまうのだろうか。
月明かり照らされた、真っ直ぐに前方だけを見据えている綺麗な横顔をチラリと見上げる。
「ヒバリさんは、この辺に詳しいんですね」
「当然だよ。この一帯は虱潰しに巡回しているし、委員にもさせている。知らない場所は無い」
「はひ。凄いです…色々な意味で」
余りにもキッパリと言い切られ、その自信に満ちた台詞に感心してしまう。
けれどそれは単なる大言などではなく、紛う事無き事実なのだろう。
雲雀の横顔を見れば、それは嫌でも解った。
「着いたよ」
ぼんやりと、ただ手を引かれるに任せて歩いていたせいか、言われて初めて自分達が開けた場所に出ている事に気付く。
他に人気は全く無く、風にそよぐ草の葉音だけが支配する世界に、ハルは不思議と心が落ち着くのを感じた。
軽く辺りを見渡せば、先程よりも丈の長い草で覆われた土地の片隅に、ひっそりと形を潜めて佇んでいる社を発見する。
一体どれ程長く放置されていたのか。
少し触れただけで、腐食した木片が社からボロリと零れ、草叢へと落ちて行く。
風雨に晒され続けた結果が、其処に在った。
賽銭箱代わりらしき小さな木の箱が、社の前にちょこんと設置されている。
ハルは雲雀の手を離すと、その中に財布から取り出した5円玉をそっと入れた。
チャリンとぶつかって響く音に、静かに手を合わせて目を閉じる。
初詣にはまだまだ早いが、一足先の参拝というのも偶には良いかもしれない。
来年に向けた願い事を心を込めて祈ると、ハルは空を見上げている雲雀へと向き直った。
「ヒバリさんはしないんですか?」
「僕は神頼みなんてする必要もないからね。成し遂げたい事は全て、実力でやる」
「それもそうですね…。神頼みするヒバリさんなんて、想像するだけで怖いですし」
脳裏に数珠を握って空に向かって祈り続ける雲雀の姿が横切り、ハルはその余りにも不気味な姿に、思わずぶるるっと小さく身震いして呟いた。
「それで、御籤は引くのかい?」
ハルの脳内で自分が有り得ない行動をさせられている事も知らず、雲雀は社の影に隠れていた細長い筒を示す。
「あ、はい。来年のラッキー運試しです!」
社と同じく放置されて久しいその筒は、しかし金属製のお陰で腐食は然程酷くは無い様だ。
全体的に錆が浮き出ている位で、これならば崩れ落ちる心配も無いだろう。
「此処にお金入れるんでしょうか」
筒の高さに合わせて屈むと、その上部に開いている楕円形の細長い穴を覗き込む。
穴の直ぐ下に100円という金額が掘り込まれている事からしても、此処が投入口で間違いなさそうだ。
100円玉を取り出し中に放り込むと、自動的に下方から小さな白い包みが飛び出して来た。
勢いがつき過ぎた包みはそのまま草叢に消えてしまうも、白い色合いが幸いして直ぐに見つかる。
自分の小指程の大きさしかない包みを取り上げ、ハルは再び御籤筒を見遣った。
「ヒバリさんもしましょう、御神籤」
「要らない」
「そんな調子だと運気向いてきませんよ?偶には童心に戻るのも良いじゃないですか。きっとハッピーになれます!」
即答で却下されるも、ハルはめげる事無く財布からもう一枚硬貨を取り出した。
雲雀が何言かを続ける前に、もう一包みの御籤をさっさと購入して彼の手に押し付ける。
「………」
短く吐き出された溜息は諦めの証拠だ。
雲雀は己の右手に残された包みを見下ろし、渋々開封に取り掛かった。
「はひ。大吉だと良いですね!悪くても中吉辺りでお願いします、神様!!」
何故か気合を入れて祈るハルを横目で見遣り、雲雀は包みの中から現れた一枚の札に視線を落とす。
そんな彼の姿に嬉しそうに笑うと、ハルはゆっくりと包みを解き始めた。
徐々に現れる札の上部が見え、其処に書かれていた『大』という一文字に目を大きく見開く。
「はひー!凄いです!!大……きょ、う?はひ?」
歓声を上げたのも束の間、札の全体がハルの視界の下に晒された瞬間、想像とは全く違っていた続き文字に凍り付いてしまう。
「だ、大凶!?」
先程とは打って変わった悲鳴がハルの口をついて出る。
手にした札を食い入る様に見つめるも、それで結果が変わる筈も無い。
札にはその二文字以外に何の書き込みも無く、無駄に強調された来年の絶望的な運気に、ハルは泣きそうな顔で雲雀へと近付いて行く。
「ヒバリさん、ハルの来年はダーク一色でした…」
「ふぅん」
「ヒバリさんは…?」
まるでこの世の終わりだと言わんばかりの表情に、雲雀は呆れた顔で手にしていた札を少女へと差し出した。
「あげる」
「?」
自分が持っている物と全く同じ形の札を受け取り、ハルは其処に書かれている文字に目を瞬かせる。
「大吉…」
何という強運だろう。
ハルは先程までのショックも忘れ、ただ呆然と雲雀を眺めた。
「君が持ってなよ」
「で、でも…ハルがこれ貰ってしまうと、ヒバリさんの来年の運気が…!」
「言ったでしょ。僕はそんな物に頼る必要なんかないって。神頼みも御籤も興味はないし、無用の代物だ」
「それじゃ、どうしてわざわざ此処に?」
「君が初詣したいって言ったからだよ。此処ならその格好も気にならないだろうし、丁度良いと思ってね」
何気無く紡がれた言葉が、ハルの心臓を直撃する。
「はひ…ハルの為、でしたか」
雲雀の御籤と自分の御籤を合わせて胸に抱きしめ、ハルは何度か深呼吸を繰り返す。
まさか其処まで自分の事を気遣ってくれているだなんて思いもしなかっただけに、相当な不意打ちを食らった気分だ。
ハルは一向に静まらない動悸に堪え切れず、勢い良く雲雀に抱きついた。
「ヒバリさん、有難うです!」
「別に礼を言われる事なんてしてないけど」
「でも嬉しいです!凄く、凄く嬉しいです!!」
叫ぶ度に雲雀に対する想いが募っていく。
それに合わせる様にして、除夜の鐘が夜空を震わせ始めた。
頭に残る鐘の音にハルが目を閉じていると、不意に雲雀の手がハルの顎を捉え、上向いた唇に己の顔を重ねる。
柔らかな感触にハルが目を見開いた時には既に、雲雀は顔を離してしまっていたが、代わりに腰に回された腕が暖かく彼女の身体を包み込んでいた。
「ひば、ヒバリさん…?」
「明けましておめでとう、ハル」
驚き見上げた雲雀の顔がとても優しく、ハルは一瞬見惚れてしまったせいで返事に窮してしまう。
「はひっ。あ、明けましておめでとう御座います!」
辛うじてそう返すものの、何となく雲雀の顔を見るのが気恥ずかしく、ハルは腕時計に視線を移した。
時計の秒針は0時を回り、もう直ぐ1分になろうとしている。
雲雀の心音と除夜の鐘の音に気を取られている隙に、去年という一年はあっという間に終わってしまっていた。
始まったばかりの今年も、もしかするとこんな風に気付けば過ぎ去っているのかもしれない。
雲雀に恋をしたまま、その傍で過ごして。
何年も何年も、驚いたり笑ったり泣いたりと、きっと同じ様な一年を繰り返すのだろう。
「ヒバリさん、来年も此処に来ましょうね」
雲雀の背中に両手を回して抱きつくと、雲雀は小さく笑ってハルの額に軽いキスを施す。
除夜の鐘が鳴り終わるまで、二人は抱き合ったまま、その場を動く事は無かった。
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