流れるもの
その娘は緩やかな水辺に打ち上げられていた。
何処から流されて来たのだろうか、全身は凍える程に冷たく、本来は薄桃色であっただろう唇は青紫へと変色してしまっている。
それでもその口からは微かな呼気が漏れ出ており、彼女が生きている事を示していた。
「………」
尤も、このまま此処に放置しておけば、間違い無くこの娘は寒さで凍え死んでしまうだろう。
既に夜気は間近まで近付いて来ている。
この周辺一帯は、後数刻もしない内に闇に沈むのだ。
彼女が纏っている白い衣装は人目を引き易い物だが、人気の全く無いこの場所では、誰かに見つけて貰う確率は限り無く零に近い。
別に放っておいても良いのだが、そうすれば確実に死体の出来上がりだ。
幾ら人気が無くとも、死体があれば何れは誰かの目に留まる。
川原に群がる人の姿を想像するだけで、自然と眉間に皺が寄せられた。
「面倒だな…」
黒い僧衣を纏った少年は低い声で呟くと、水を含んで重くなった衣ごと娘の身体を抱き上げた。
「…ぅ」
恐らく川を流される途中、身体のあちらこちらを打ったのだろう。
意識は無くとも認識出来る痛覚が、彼女の口から呻き声を搾り出す。
少年はそれをチラリと見遣り、しかし全くその傷には構う事無く歩を進めた。
だらりと地を向いて垂れ下がった娘の指先から、パタリパタリと透明な雫が滴り落ちて行く。
地に点々とした跡を残しながら、黒い衣と白い衣はゆっくりと夕闇に染まりつつある風景に溶け込んで消えた。
父と母が、実は血の繋がった兄妹だったと聞かされたのは一ヶ月前の事だった。
それが村中に知れ渡った瞬間、ハルのささやかながらも幸せな生活は終わりを告げた。
地獄の日々とでも言えば良いのだろうか。
それまで優しかった人々は瞬時にして冷たくなり、中にはハルを見るなり石を投げ付ける者までいた。
「不浄の子」
「気味が悪い」
「穢れが移る」
そんな数々の悪口雑言を浴びせられ、村八分にされた家には火を掛けられた。
彼等の行為は日を増す毎に酷くなり、暴力沙汰となる事も最早日常茶飯事な状態だった。
近親相姦は禁忌であり、ご法度でもある。
それは解っていた。
けれど、それでも互いに愛し合い、その結果生まれたのがハルなのだと、両親は生傷の絶えない顔で笑っていた。
ハルを庇い、村人に傷付けられる彼等の姿に、自分の存在が厭わしくなったのも2回や3回では済まない。
村を出て行こう。
これ以上此処に居れば村に迷惑が掛かるし、私達も幸せにはなれないだろうから。
ハルの頭を優しく撫でながら、父は穏やかな声でそう告げた。
「何処へ?」
顔を上げると、口調と同じく柔らかな笑顔と視線が合う。
けれどその頬は、幾度となく拳で打たれた痕が残っていた。
そうだな、何処か遠くへ…。
3人が幸せに暮らせる場所へ。
そんな地を見つけよう。
焼け跡となってしまった家の残骸を見つめ、父と母は互いに頷き合っていた。
その姿が水を取り込んで膨れた死体となって、川に浮かんだのは次の日の事。
穢れを許さない神事に仕える者達と、神を敬愛して止まない村人達の仕業だった。
泣き叫んで死体に取り縋るハルは押さえ付けられたまま、その頭上で飛び交う冷たい声音をただ聞く事しか出来なかった。
「娘の方はどうする」
「本来の穢れの持ち主はあの娘だ」
「あれも殺して沈めた方が良いのではないのか。此処数年の不作はあれが原因だろうに」
「神の罰が我らにまで下される前に、早い措置を施さねばなるまい」
「今直ぐにでも」
「早く、早く、早く、息の根を」
心の臓が凍り付く程の恐怖が、ハルから声を奪う。
ただ見開かれた目から流れる涙が、もう面影の無い父の顔へと降り注ぐだけ。
右手で掴んだ母の指先が、ぐにゃりと歪むだけ。
「まぁ待て」
喧騒を打ち破った一つの声に合わせ、好々爺然とした顔の村長が進み出た瞬間、ハルの恐怖は倍増した。
一月前までは一番ハルを可愛がってくれていた彼は、ハルが不義の子だと知るや否や、常に着いている杖で強かに少女を打ち据える様になっていた。
常に父と母が身を挺して庇ってくれていたが、今は守ってくれるその肉体は無い。
鈍い音が空を切り、その直後、ハルの背中を鈍痛が走った。
悲鳴すら上げられずに父親の腹に顔を埋めた少女を見下ろし、彼は冷然とした表情で二つの死体へ視線を移した。
辺りに漂う死臭に眉一つ動かさぬ姿を、流石の村人達も固唾を呑んで見守る。
「今日は雛流しの日だったな」
先程まで父母が浮かんでいた川では無く、更にその先にある滝へと顔を向け、村長は薄っすらと目を細めた。
「あぁ、そういえば…」
「穢れを祓う日だ」
「成る程、丁度良い」
村長の言葉に含まれた意思を汲み取り、村人達はざわめき始める。
「本来流すのはヒトガタだが、これは穢れそのものだ。流すのに不都合は無いだろう」
底冷えのする視線に顔を上げられず、腐臭のする冷たい躯に顔を押し付けたまま、村長の下した裁可をハルはただ聞いていた。
殺されなければならない程に、自分の存在は忌むべきものなのか。
あんなにも優しかった父と母を殺す程に、彼等は穢れが許せなかったのか。
特別悪事を働いた訳でも、誰かを傷付けた訳でも無い。
それなのにどうして、これ程までに惨い事をされねばならないのか。
父と母は愛し合っただけだ。
例え兄と妹であったとしても、その感情に間違いがあったとは思えない。
自分達は幸せになりたかっただけだ。
贅沢を望んだ訳でも無く、ただ親子三人で暮らしていたかっただけなのだ。
あぁ、それともそう願う事は、死にも値する大罪だったのだろうか―――?
何もかもが不条理に思え、ハルは震えながら父親の身体にしがみ付いた。
「お、目が覚めたか」
ぼんやりとした視界に、金の髪が良く映えている。
天上の楽園にはこんな神様が住んでいるのかと、ハルは数回瞬きを繰り返しながら考えた。
「気分はどうだ?」
「…は、ひ」
自分の声が耳に届く。
掠れてはいるけれども、それは確かに自分のものだ。
「声は出るみたいだな。それなら大丈夫だろ。…ま、生きてて何よりだ」
大きな手の平でクシャクシャと頭を撫でられる。
全く似て等いないというのに、その行為が何故か父親を思い出させた。
「い、きて…?ハルは、生きて…るんです、か」
小さなその問い掛けに、青い目が軽く見開かれる。
「あぁ。生きてる。もう大丈夫だぞ」
サラリと揺れる金糸の髪に、ハルは意図せずして深く息を吐いた。
自分が生きているという事は、どうやら彼は只の人間らしい。
見た事の無い容貌からして、恐らくこの青年は『異人』という存在なのだろう。
この国の言葉を話してはいるが、噂に聞く姿形とほぼ一致しているから間違い無い。
「ほら、取り敢えず水でも…おわっ!?」
異人の青年が水差しを畳の上から取り上げた瞬間、彼は何故か上半身のバランスを崩し、ハルの上へと覆い被さって来た。
両手をハルの頭の真横に着いたおかげで何とか彼女を潰す事は免れたが、水差しまではそうもいかずに盛大にぶちまけてしまう。
再び水に濡れてしまったハルを見るや否や、青年は慌てて布団から飛び退いた。
「わ、悪い!直ぐに拭く物を持って来るからな…あ、でも今は一人にするのはまずいのか?おい、恭弥!恭弥!!」
忙しなく部屋中に視線を走らせる姿を、ハルはポカンとした表情で見上げる。
額から頬に掛けて幾筋もの水の筋が走り落ちてはいたが、それは奇妙に温かく感じられて思わず笑ってしまう。
「え、あ、オレどっか変か?いや、そんな事より拭く物を持って来ないと…恭弥ー!…ったく、あいつ何処行ったんだ?」
ギシ、と床を軋ませながら青年は立ち上がり、そのまま部屋を出て行こうとして、一度クルリとハルの方を振り返る。
「ちょっと拭く物と…そうだな。後は何か温かい食い物でも持って来るから、そのまま寝てろよ?水は吐かせたけど、体温がかなり低下しててまだ戻ってないからさ」
優しい笑顔を浮かべてそれだけ告げると、青年は障子戸を開けて部屋を後にする。
直後、何かが縁側を滑る大きな物音が聞こえ、先程の青年の悲鳴が遅れて木霊した。
「……はひ」
ろくに動かせない顔を其方へと向けるも、室内とは違って障子の向こうは暗く、目を凝らしても何も見えない。
畳の匂いの深い部屋には幾つもの燭台が置かれ、その上ではチリチリと蝋燭の火が揺れている。
動かせる範囲で視線を流すと、自分の寝かされている布団が相当に上質なものだという事に気付く。
村長の家ですら、此処まで立派な品揃えは無かった。
尤もあの辺り一帯は不作続きで、ろくな食べ物すらない状況が続いていたのだから、此処と比べるのは間違っているのかもしれないが。
「そう、いえば…」
此処は何処だろう。
今更ながらな疑問が沸き上がり、ハルは痺れる手を動かしてゆっくりと上半身を起こした。
たったそれだけの短い動作でも、全身を鈍い痛みが走り抜ける。
「く、ぅ…」
起き上がっていられたのは僅か6秒にも満たず、ハルの身体は横倒しに再び布団の上へと倒れ込む。
「何してるの」
その衝撃に口を引き結んで耐えていると、開かれたままの障子戸の影から声が聞こえて来た。
「……ぁ」
先程の青年とは違う。
彼よりは少々若い、自分と同じ年代の少年のものに、ハルはゆっくりと目を開く。
痛みに滲んだ涙が、世界を少々歪ませている。
そんな中、障子戸の前に立っている少年が一人、居た。
黒の僧衣を見に着けている、ハルと同じ黒髪に黒い目。
純粋なるこの国の人間だ。
「跳ね馬が大人しく寝てろと言ったのを聞いてなかったのかい?」
無表情の割りには不機嫌そうな声音で、少年は背後に凭れて腕を組んでいる。
「跳ね、馬…?」
「さっきまで君の世話をしていた男だよ。何処に行ったのか知らないけど、その様子を見る限りでは彼はまたヘマをした様だね」
呆れた様な言葉、しかし語調は変わらない。
「あの人なら拭き物と…食事を、持って来ると、……っ」
続けようとした言葉が、不意に襲ってきた咳の衝動に阻止されてしまう。
ゲホゲホと咽るハルの姿を無感動に眺めたまま、少年は腕組みを解いてハルへと数歩近付いて行く。
「水に恐怖は?」
「は、ひ?」
畳の上に片膝をついた格好で、少年はハルの前髪を緩く掻き上げた。
水に濡れて重くなった髪先を払われ、驚いた様に相手を見ると、少年の視線と間近でぶつかる。
鋭い目付きとは裏腹に心なしか優しいそれに、ハルは瞬間見惚れて声が出せない。
「…へ、平気です」
「ふぅん。通常、溺れた者は水を怖がるのが当たり前だと聴いた事があるけど、君は違うみたいだね」
「ハルは溺れた訳では……」
其処まで言いかけて迷いに淀む。
もしも自分が穢れた存在だと知られてしまったら、優しいあの異人とこの少年も自分を殺そうとするのではないだろうか。
そんな恐怖に、ハルはそれ以上何も言えず口を噤んだ。
「……?まぁ、別に良いけど。僕には関係無い事だし」
彼女の心情を察したのか否か、少年は手をスッと引っ込めて立ち上がった。
そのまま行ってしまうのかと思いきや、彼は再び腕組みをしたまま障子に背を預けて目を閉じてしまう。
身じろぎ一つする事の無いまま時間だけが過ぎ、部屋には静寂が満ちて行く。
「あの…」
まさか立ったまま寝ている訳ではないだろうが、余りにも静かなのでハルは恐る恐る声を掛けた。
「何?」
「あ、はい。えっと…ハルを助けて下さり、どうも有難う御座いました」
「…別に」
一瞬の間の後、少年はつまらなさそうに閉じていた目を開く。
彼の鋭い視線がそのまま背後に向けられると同時に、先程の異人の青年が障子戸の向こうから顔を覗かせた。
其処で初めて、彼もまた少年と同じく黒の僧衣に袖を通していた事に気付く。
どうやらそれ程に、ハルの視線は青年の風貌に釘付けだった様だ。
「何だ恭弥、此処に居たのか。探したぞ」
「…僕が何処へ行こうと報告する義務なんてないでしょ」
青年が部屋へ足を踏み入れると、逆に少年は部屋から出て行こうと背を向ける。
「そりゃそうだけど…ったく、相変わらず愛想無いヤツだな。あ、遅くなって悪ぃ。こんなのしかなかったけど、ま、喰い始めには丁度良いだろ」
片手に湯気の立つ茶碗を持ち、もう片方には布と着替えらしき物を提げている青年へ小さく頭を下げる。
ハルが頭を上げると、既に恭弥と呼ばれた少年は部屋から消えていた。
「はひ。その、…助けて頂いて、どうも有難う御座いました」
先よりは大分まともに言葉を繰るハルに、青年は嬉しそうに笑って畳に腰を落とす。
「いや、お前さんを川から引っ張り上げて此処まで運んだのは恭弥だからな。オレは何もしてないから、礼ならあいつに言ってやってくれ」
「はい。でも、看病をして下さいましたし、本当に、有難う御座います」
青年から布を受け取り、それを額にそっと押し当てる。
其処でふと、先程触れた少年の指の感触が蘇り、ハルは動きを止めた。
「ん。何処か痛むのか?」
「はひ」
「あ…そりゃ痛むよな。あちこち痣だらけだったし。…いや、態と見た訳じゃないぞ?着替えさせるのに必要だったから、つい…。いやいや、でも胸とかはちゃんと布で隠して拭いたから安心してくれ!そ、それよりもこれ。着替えだ」
一人で矢継ぎ早に言い訳を始めた青年は、顔を微かに赤く染めて、新たな衣をハルへと突き出す。
何故か視線を合わせない彼に、ハルは不思議そうに首を傾げるばかりだ。
一通り顔を拭き終わり、手触りの良い衣装を受け取り広げると、それはハルの体格よりやや大きめな白い着物だった。
女性用ではなく男性用の代物からして、もしかするとあの少年の物なのかもしれない。
わざわざ囲炉裏近くで温めてくれたのか、衣装は仄かに暖かい。
「あ…」
ほろりと、ハルの目から涙が零れ落ちた。
その光景に、青年がギョッとした様に肩を揺らせて視線を戻す。
「これ、気に入らなかったか?でも今他にないしな…えーっと、…どうするか」
慌てる彼に、ハルはぼろぼろと涙を落としながら首を振る。
「ちが…違い、ます」
久しぶりに触れた他人の優しさが、余りに切なくて嬉しくて。
どうしても零れる涙を止めることが出来ない。
これは、ハルの素性を知らないが故の、一時的な施しでしか無いのかもしれない。
ハルの生い立ちを知った途端、あの村人達の様に突然変わってしまうのかもしれない。
それでも、例えそうだとしても、今はどうしようもなく、嬉しくて嬉しくて嬉しくて。
おろおろと慌てる青年を前に、ハルは涙が枯れるまで泣き続けていた。
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