名無しの夢






それは、ずっとずっと遠い記憶。
もうどれ程に長い時が流れたのか、それすらも覚えられない位、古い記憶。
ゆっくりと流転する時の中で育まれ、そして失われてしまった想い。
大切で、愛しくて、狂おしくも切ない、そんな耐え難い感情だった。
どうして彼女を殺めてしまう事になったのか。
どうして自分だけは生き延びて、再び地上を歩く事となったのか。
余りにも苦しくて、苦しくて。
最期には手放してしまった愛情を、今でもハッキリと覚えている。
どんな顔をしてどんな声をしていたのか、それら全てを含めた大切な思い出は、全部消えてしまったというのに。
どうしてだろう。
あの輝く様な笑顔だけは、今でも記憶に残っているのだ。
あの時の自分が愛した、彼女の最高の笑顔が。
思い出そうとすれば、幻の様に直ぐに消えてしまう唯一の面影は、時々恐ろしいぐらい鮮明に目の前に現れる。
視覚ではなく心の触覚で捉える儚い画像なのだと、思わず伸ばしてしまった指先が空を切った瞬間に気付いた。

これは一体、誰の記憶だ?

自分は知らない。
彼女なんて会った事も無ければ、見た事も無い。
つい最近感じる様になってしまったこの想いも、全く覚えが無い。
「オレ、どうなってるんだ…?」
片手を額に当てて呟いてみる。
もしかして、自分でも気付かない内に、かなりの疲れが溜まってしまっているのだろうか。
最近は色々な事が有り過ぎて、ろくに休む暇も無かった。
そういえばこの所、リボーンの厳しい修行も心なしか和らいだ気がする。
「やっぱり疲れてるのかな…」
「ツナさん、どうしたんですか?」
溜息を吐いた瞬間、背後から聞き慣れた声が届く。
毎日嫌と言う程聞いている声だから、誰かは直ぐに解った。
「いや、なんでも―――」

振り返って凍り付く。

「ツナさん?」
余程凄い形相をしていたのだろう。
ハルは心配そうな表情で此方を見上げている。
けれども口は震えて動かない。
否、動けない。
「ハ、ル…?」
「はひ」
「ハル…」
「ツナさん?大丈夫ですか、顔色が悪いですよ」
「あ…ぁ、うん。大丈夫」
辛うじて返した言葉は大根役者の様な棒読みで、ハルはますます顔を曇らせてしまう。
「大丈夫じゃありませんよ。直ぐお医者さんに…」
「煩い!大丈夫だって言ってるだろ!?」
額へ伸びてきた手を振り払うと、背を向けて走り出す。
視界の端で捉えたハルの歪む顔が、胸を焼け焦がす程に痛めつけた。
けれど今は謝る事が出来ない。
本当は直ぐにでも引き返したいのに、ドクドクと早打つ心臓の音がそれを許さない。
あれ以上あの場に居れば、何をしてしまうか解らない自分が怖かった。
「何だよ…どうなってるんだよ!」
叫び声が誰も居ない通りに響く。
足を止めると、身体の中から吐き出される自分の呼吸音だけが耳についた。
ハルが追い掛けて来る気配は無い。
傷つけてしまった少女の顔を思い出し、左胸に手を添えて大きく息を吐き出す。
心臓が、悲鳴を上げている。
彼女の存在を見つけた事に歓喜している鼓動が、脳に指令を与えて指先をビクビクと震わせている。
どうしよう。
思い出してしまった。
彼女は、ハルだ。
ハルは、太陽の下で輝くあの笑顔を放っていた少女と全く同じ存在なのだ。
「…はは…」
一週間前までの自分ならきっと、前世の記憶なんて馬鹿げていると笑い飛ばしていた事だろう。
けれど今はもう出来ない。
彼女の存在を思い出し、そしてハルを見てしまったから。
ハルの笑顔を見てしまったから。
唯一の記憶が合致してしまえば、後はもう芋蔓式に掘り起こされてしまうだけだ。
ズルズル、ズルズルと。
もう何百年と昔の、二度と思い出したくも無い記憶達。
それらが徐々に明かされて行く事は恐怖でしかない。
ハルと出会ってもう一年も経っている。
それなのに、どうして今になって思い出してしまうのか。
何故に今更、前世の記憶などというものが蘇ってしまったのか。
「まさか、未来に行った事に関係あるのか…?」
10年バズーカで飛ばされた先にあった、凄まじい戦いの日々。
もしかするとあの戦いが、この前世の記憶を呼び覚ます触媒となってしまったのかもしれない。
「リボーンに、聞いてみないと」
世界最強の殺し屋でもあるあの赤ん坊ならば、何かしらの答えを持っている気がする。
ボンゴレファミリーの内情に詳しい彼ならば、きっと。
目を閉じても消えない、瞼の裏に浮かび上がって来る少女の笑顔。
「ハル…」
唇を噛み締めて呟けば、彼女の瞳は揺らいで閉じた。







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