願いも頼みも望みも全部
彼の人は明らかに寝惚けていた。
そのせいで、只でさえ普段から爬虫類じみた目が更に威圧感を増している。
尤も、本人に自覚は全くないのであろうが。
「…スパナさん…」
ハルは部屋の片隅に立ち竦んだまま、ベッド上に起き上がっている住人に呼び掛けた。
「………ん?」
返事はちゃんとする。
視線も此方へと向けられている。
しかし、明らかに瞳孔がフラフラと泳いでおり、視線が定まっていない。
「…起きてますかー…」
「……ん」
こくり、と子供の様な仕草で頷くスパナ。
素直なのは結構な事だが、嘘を吐くのは止めて欲しい。
それとも彼にとっては、今の状態でも『起きている』部類に入るのだろうか。
「寝惚けてますよね」
「…んん」
これは否定だろうか。
頭を振ってくれないと今一解らない。
スパナはサイドテーブルから取り上げた飴を銜え、もそもそと着替えを始めた。
ハルの目の前で。
寝る時に着ていた薄手の生地を脱ぎ捨て、トランクス一枚という格好になっても尚、彼は覚醒した様子が無い。
部屋の温度は一定に保たれているので、恐らくはそれも原因の一端だろう。
これが絶対零度な室温だったら、スパナは直ぐ様目を覚ますであろうに。
温度調整のリモコンを探してしまいたい衝動に駆られるも、それは何とか寸でのところで踏み止まった。
「エロいです。ハルの前で着替えないで下さい」
「…んー…」
今度はやや不満そうな口調でスナパが唸る。
それでも着替える手は止めない。
否、上半身裸の状態で止められても困るから、それはそれで良い事ではあるのだが。
この年齢の女子に成人男性の裸はキツイ。
例えそれが上半身だけであっても、思わず視線を床へと固定してしまう。
「ハル、ちょっと部屋出てますね。着替え終わったら、この籠にパジャマ入れておいて下さい」
今まで手にしていた小型な薄グリーンの籠を扉前に置き、そのまま背を向けようと踵を返す。
が、扉に手を掛けた瞬間、背後からスパナの静止が届いた。
「だめ」
「何でですか!」
言い返すと同時に、思わず振り返ってしまう。
そして再び見てしまったスパナの着替えシーン。
…まるで覗きでもしているかの様な、この何とも言えない気分…。
本当にどうにかして欲しい。
「だめ」
漸くツナギに足を通して袖に手を突っ込んだスパナが、またしても同じ言葉を繰り返す。
「寝惚けてます。まだスリーピングモードに入ってます、この人…」
「ん」
がっくりと項垂れるハルに、今度はやや満足そうな声。
取り敢えずハルが部屋に残った事で、機嫌は良いのだろう。
「スパナさん、水でも持って来ましょうか。頭から掛けてあげますよ。きっとコールドな気分が味わえて、目なんて直ぐに覚めます」
「それは嫌」
ボタンを留め終わったところで、漸くまともな返事が戻って来る。
目付きは未だ怪しい部分があるものの、声にハリが出たところから、どうやらやっとお目覚め下さったらしい。
「もう、何でハルが毎朝こんな気分味合わないといけないんですか!」
床に置いた籠を突き出し、スパナ自らの手で脱ぎ捨てた衣装を入れさせる。
長身の青年は、怒るハルをじっと見下ろし、ぽんぽんとその頭に手を置いた。
「何でハルは毎朝、そんなに怒ってるんだろう」
ボソリと呟くスパナに、ハルは余りの理不尽さに彼を睨み上げる。
「誰のせいですか、誰のっ」
「うん、余り怒ると身体に悪いよ」
今度は優しい手付きで頭を撫でられ、何だか泣きたくなって来る。
何処まで言っても、彼は常にこんな調子だった。
怒れば怒る程、ギャンギャン吼えている我が身が虚しくなってしまう。
スパナの衣服分だけ重くなった籠を腕に抱え、最早何を言う事も無く扉を潜った。
「ハル」
廊下に出た所で、またしても静止が掛かる。
今度はスパナの片手付きで。
「何ですか」
「毎朝ありがと」
不機嫌な顔で振り返ると、頬に柔らかな感触が触れた。
「…どういたしまして…」
あぁ、全く以って理不尽だ。
こんな事で、毎朝の彼の振る舞いを許してしまうなんて。
何て…何て情けない!
そう、自分自身を叱ってはみるものの、それも長くは続かない。
結局は、スパナのキスひとつで全部が帳消しになってしまうのだ。
そして毎朝の光景は繰り返される。
毎日毎日、一年中ずっと。
それが納得出来ようと出来まいと、拒めない自分がいるのだから、これはもう仕方ない。
スパナと自分へ諦めの溜息を零し、それでもハルは悔しそうにそっぽを向いた。