認識の差異に漠然と
「あぁ、渡り鳥だ…」
白蘭がふと零した言葉に、ハルは書類から顔を上げて青年を見遣った。
「白蘭さん。今はそれどころじゃないって事、解ってますよね?この書類の山は全部、白蘭さんが溜めた物なんだって事も、解ってますよね?」
胡乱な目付きで青年を睨むハルに、白蘭は参ったという様に肩を竦めて笑う。
「うん、解ってるよ。ハルちゃんは厳しいなぁ」
「茶化してる暇があったら、一枚でも良いからやって下さい!」
ハルの片手がバンバンとデスクを叩くと、その衝撃で積み重ねられた白い紙の束が何枚か風に運ばれて行く。
寒いと文句を言っても、依然として窓を閉めなかった青年の方へとそれらは運ばれて行き、やがて白い靴の上へと舞い落ちて行った。
「ハル、怖いよ」
「誰のせいですか!本当なら今日はハル、丸一日お休みだったんですよ?それなのに、白蘭さんが書類全く片付けてないって言うから呼び出されて…はひー。ハルの貴重なホリデー・タイムを返して下さいぃぃ」
わっと机に突っ伏して嘆くハルに、白蘭は「仕方ないなぁ」と小さく苦笑しながら近付いて来る。
誰のせいだと、殴りたい衝動を拳を握って耐え、ハルは未だサインの埋まらない残りの書類を恨めし気な目で眺めた。
「はい、これ落ちたよ」
「はいじゃありません。それぐらいは自分でサインして下さい」
デスクの片隅に置かれた3枚の紙面を付き返し、有無を言わせぬ勢いでペンと一緒に白蘭の手へ押し付けると、流石に諦めたのか青年は大人しく自分の椅子へと腰を落ち着けた。
「解ったよ。僕の有能な秘書さん」
ペンを片手で弄び、彼はクルリと椅子を回転させて机へと向き直る。
しかしその目は、未だに窓の外に向けられたままだ。
「…白蘭さん?」
更に文句を言い募ろうとするも、その視線がやけに憂いを帯びている様に見え、瞬時にして文句は呼び掛けへとすり替わってしまう。
視線の先に在るのは、先程彼が見ていた鳥の群れ。
全体的に白い羽毛で覆われた翼を、必死で羽ばたかせて飛んでいる鳥達の姿だった。
「うん」
「渡り鳥に何か思い入れでもあるんですか?」
「そんなのはないよ」
「そう、ですか…」
「ただね」
「?」
瞬時にして、影が白蘭の顔を覆い尽くす。
そんな奇妙な目の錯覚に襲われ、ハルは息を呑んで相手を凝視した。
「少しだけ思ったんだよ。彼等には、あんなにも必死で戻りたい場所があるんだなぁって、ね」
何時もとはほんの少し違う笑顔で、白蘭は目を細めている。
「白蘭、さん…」
その笑顔の下で、彼は一体何を考えているのだろう。
「はいはい。ちゃんと仕事するから、そんな目で見ないで?」
ハルの凝視を違う意味に捉えたらしく、白蘭は遊んでいたペン先を紙面に置き、サラサラと早いペースでサインを施して行く。
窓の外を横切っていた鳥達の姿は既に無く、その鳴き声すらも聞こえなくなっていた。
「………」
仕事に取り掛かっている上司から書類へと視線を戻し、ハルもまたペンを動かし始めるが、どうにも心此処にあらずな状態で身が入らない。
先程見た白蘭の表情と言葉が、頭の中から消えてくれないせいだ。
もしかしたら彼は、還る事の出来る場所が無いのだろうか。
否、戻りたいと思える様な、そんな場所が無いのだろうか。
ミルフィオーレというこの組織は、現在の住まいであり、居住地でもある。
しかし此処は、彼にとっては所詮、仮初の宿でしかないのかもしれない。
現在の居場所を失っても、寄る辺の在る者は幸せだ。
そんな事は解っていたつもりだが、実際にそれを持たない者を目の当たりにすると、その者が酷く哀れに目に映る。
何と失礼な、上から目線の考えな事か。
自分が酷く嫌な人間になった気がして、ハルはぶるるっと首を左右に振って流した。
「…そろそろ風も出て来ましたし、窓、閉めますね」
「うん」
成るべく白蘭を視界に入れない様に、窓だけを見据えて立ち上がる。
白塗りの窓枠に手を掻けると、群れからはぐれてしまったのか、一羽の鳥が空を舞う姿が目の端に入った。
一羽孤独に飛ぶその雄姿が、誰かの影と重なって見える。
あぁ、もしかしたらあの鳥も、戻るべき場所が無いのかもしれない。
段々と小さくなって行く飛行体に背を向け、ハルは後ろ手に窓をそっと押さえた。