贈り物という名の奇跡
血の池地獄という言葉がある。
今の状況は、まさしくその言葉がピッタリと言っても過言ではないぐらい、周囲は赤く染まっていた。
その真っ只中に突っ立ち、掌の上でナイフを弄んでいる影が一つ。
金髪の髪を揺らし、肩を揺らし、全身を揺らしながら笑っているその顔は、狂気一色で占められている。
あぁ、あれは自分だ。
そして目の前に横たわっているのは、自分そっくりの少年。
一卵性双生児の兄。
閉じられた瞳には既に生気の欠片も無く、僅かに開かれた唇から漏れる息も無い。
完全なる死体。
自分と瓜二つの、死体だった。
「………っ」
突然吹き荒れた、狂おしいまでの歓喜に、少年の身体がゆらりと傾ぐ。
ガクガクと小刻みに震える手からナイフが滑り落ちる。
澄んだ金属音に、使用人の悲鳴が重なった。
「誰か、誰か―――!!」
甲高い叫び声につられ、腹の底から哄笑した。
恐怖に見開かれた目が此方へと焦点を合わせる前に、もう一本のナイフが袖口から飛び出て宙を舞う。
綺麗な軌跡を描いて飛んだその切っ先は、見事に使用人の喉へと突き刺さる。
「うるせー」
「がっ…あ、あぁ…」
使用人は己の喉下へと手を当て、其処に刺さった冷たい感触に途方に暮れた表情を浮かべている。
しかしそれも束の間、自分の手がナイフを引き抜いた瞬間に、苦悶の形相へと変わる。
「バイビ」
噴き出た血飛沫を全身に浴び、二体目の遺体となった女を見下ろす。
そして身を翻した。
遅れて遠くから幾つもの足音が聞こえ、続いて怒号と悲鳴が耳に届く。
それらの物音を吹っ切るかの様に、二階の窓枠から飛び降りた。
子供の背丈にはかなりの高さがあったが、どうすれば怪我をしないで着地出来るのかが自然と解った。
軽い着地音を立て、少年は再び走り出す。
逃走の為ではなく、抑え切れないこの衝動を鎮める為に。
屋敷の敷地を抜けると、キラリと目を捉える光が横切った。
自然と足先は其方へと向けられ、やがて前方から幾つもの水の反射光が目を差した。
湖だ。
其処は、何度も兄と共に遊んだ、何処までも澄んだ水を湛えた湖だった。
水辺の傍まで辿り着くも、流石に息が切れて足を止める。
その場にバッタリと倒れ込み、ゼーゼーと呼吸を整える。
伏した格好で水面に顔を覗かせると、其処には先程自分が殺した兄の顔が映っていた。
血に塗れ、荒い呼吸を繰り返しながら此方を見ている。
やがて唇の端がニィと笑みの形につり上がり、そして――涙を流していた。
頬を伝う幾つもの筋に、深い深い虚無感が募る。
愉快で楽しくて堪らないのに、同時に耐え切れない程の喪失感が全身を浸していた。
「つまんね…」
これは悲しいとか寂しいといった感情から湧き出る物ではない。
兄を殺した瞬間の歓喜、あれがもう二度と味わえないという理由での、喪失感だ。
片手を水の中に突っ込み、バシャンと水飛沫を辺りへ散らす。
その瞬間、波紋に掻き消された兄の顔が大きくブレて霧散する。
しかし時間が経つにつれ波紋は形を潜め、ブレていた顔もまたそれに沿う様にして徐々に元へ戻って行く。
「あ…」
再び現れた兄の顔は、やはり血に塗れていた。
「しししっ。…いるじゃん、まだ」
半身をゆっくりと起こし、水に濡れた片手を左胸へと這わせる。
ドクリ、ドクリと脈打つ鼓動音に、自然と身体が震えた。
まだ、最高の喜悦を味わえる身体が、此処に残っている。
その事実に、満面の笑みが広がった。
握り締めたままだったナイフへ視線を落とし、切っ先を自分へと向ける。
狙いはもう片方の手、その下にある鼓動。
心臓。
死にたいと思った訳ではない。
ただあの快楽をもう一度味わいたい、それだけだ。
例えその結果が死に繋がるとしても。
「いたい、ですか?」
ナイフが身体に突き刺さる寸前、声が聞こえた。
「…誰、オマエ」
行動を遮られ、不機嫌な表情で声のした方を向く。
其処に居たのは、自分より小さい少女だった。
両目に涙を一杯溜めて此方を見ている。
否、腕にしがみ付いている。
「いたいのですか?」
少女は自分の質問には答えず、繰り返しそう聞いた。
「なんで」
「血…。いっぱい…」
たどたどしいイタリア語で、少女は血に濡れた少年の身体を見ている。
「べつに。これ、オレのじゃねーし」
「でも、いたそうです」
ひっく、と声を詰まらせながら少女は喋る。
腕を振り回せば簡単に解ける程度の力しか持たないというのに、しっかりと両手で少年の動きを止めていた。
ボロボロと涙を零しながら、服が血で汚れる事も構わずに、しがみついていた。
「………」
何だこいつ。
そう思った。
ただ、そう思った。
先程までの昂ぶっていた感情はサッパリと消え失せ、今更ナイフを身体に突き立てる気にもなれず、スルリと重力に任せて地面へと落とす。
トスンと鈍い音を立てて地面に突き刺さる光に、小さく息を吐いた。
「いたくねーっての。だから泣くな」
明らかにこの国の者ではないと解る、黒髪に黒い瞳の少女は、其処で漸く泣くのを止めた。
此方へと向けられた顔は、涙と鼻水でぐちゃぐちゃで、お世辞にも可愛いとは言えないものだった。
けれど不思議と、目を惹きつけられる顔だった。
顔を近づけ、目元をペロリと舐めてみる。
塩辛いはずの涙は、何故か甘く舌に残った。
「ベルさん?」
名を呼ばれ、瞼が開く。
目を差す光に一瞬、まだあの湖の傍にいるかの様な錯覚を覚える。
「…あー。寝ちった」
何度か瞬いてやっと、其処が自分の部屋だという事に気付いた。
ぼんやりと天井を見上げていると、ひょっこりと一つの顔が覗き込んで来る。
「風邪ひいちゃいますよー。それに、御飯もとっくに出来てます!」
「ん」
夢の中の少女と同じ顔で、彼女は笑った。
さっきまではあんなに顔をグシャグシャにして泣いていたのに。
それに、何時の間にこんなに大きく成長したのだろうか。
まだ夢と現実の区別が今一ついていない頭をトントンと叩き、ソファからゆっくりと身を起こす。
覗き込んでいた目が嬉しそうに細められ、そのまま柔らかい唇がそっと重ねられる。
「おはようございます、王子様」
「…おはよー、ハル」
まさかハルの方からキスをしてくれるとは思ってもみなかったので、軽く驚いて間の抜けた表情を晒してしまう。
スクスと可愛らしい笑い声を漏らし、ハルは小さな包みを両手に乗せて此方へと差し出した。
「ベルさん、お誕生日おめでとう御座います!」
「あー…そっか。今日、オレの……」
道理であんな夢を見た訳だ。
プレゼントと思しき包みを受け取り、壁に掛かったカレンダーを見遣る。
そうか、今日だったのか。
初めてハルと出会った日は。
「中身、ナニ?」
「それは開けてからのお楽しみです〜。でも、まずは晩御飯食べちゃいましょうね」
「ん」
ソファから立ち上がり、キッチンへと戻っていくハルの背中を追う。
「はひ?」
ハルを後ろから抱きしめ、目を閉じる。
「ベルさんー。これじゃ用意出来ませんよ?」
そのまま動かない自分に、ハルは困った様に首を傾げている。
「も少し、このまんまで。後ちょっとだけ」
抱きしめる腕に力を込めて、ハルの体温をじっと感じ取る。
ハルは抗う様子もなく、大人しく身を任せてくる。
自分をこの世に繋ぎ止めた少女が、今この腕の中にいる。
兄を殺し、自分も死に身を投げようとしたあの日。
別段特別に思えなかった、自分の誕生日でもあるあの日。
必死にしがみついてきたこの少女こそが、自分にとって何よりもの贈り物だった。
出会いは偶然。
日本に住んでいた彼女があの日、イタリアに住む自分とあの場所で居合わせた偶然。
その偶然は、ひょっとしたら奇跡と呼べる代物なのかもしれない。
「ベルさん?」
目を開くと肩越しに振り返ったハルと視線がぶつかり、笑いながら自然と顔を寄せてキスを交わす。
舌の上に転がる甘いキスは、あの日の少女の涙と同じ味がした。