愚かなもの
残留思念というものをご存知だろうか。
時にそれは単なる電気信号として見られ、時にそれは過去の遺物として扱われる。
しかし一般に浸透しているのは、やはり『幽霊』という呼称ではないだろうか。
女の情念は男には計り知れない程に深く、だからこそ、それだけに慟哭も深いのだろう。
常にその場に立つ彼女は、ただじっと己の手を見下ろしていた。
柳の木の下とは何とも作り物めいた話ではあるが、事実其処に居るのだから仕方が無い。
一歩近付いた足で踏みしめた草が、ミシリと軋んだ音を立てる。
しかし彼女が顔を上げる事はない。
真白く小さな手を、ただただじっと見つめるのみ。
其処に一体何が見えるのか、離れた場所に居る自分には解らない。
けれど僅かに伏せられた瞼の下、微かに見える目の輝きが虚ろな事だけは解った。
「何してるの」
声を掛けたのは、彼女を見掛けて1週間が経った頃だったと思う。
それまでは単に通り過ぎるだけだったというのに、この日は何故か立ち止まってしまっていた。
「…人を、待っているんです」
空気が震える様な声が、上げられた視線と共にかち合う。
明らかに人間が持つ物とは違う音質に、やはり彼女は人外の存在なのだと改めて認識させられる。
外観は普通の女子そのものだというのに、纏う雰囲気は異質この上ない。
声も、視線も、存在も。
それら全てが、彼女がこの世の者ではないと訴えていた。
「人?」
「…ハルの、大好きな人を…」
生前は輝く様な光を放っていただろうと思われる瞳が、真っ直ぐに此方に向けられたその瞬間。
頭の天辺から爪先まで、一直線に衝撃が走りぬけた。
「待ってるんです。あの人を、此処で」
薄い桃色に染まった唇が吐き出す呟きは、言い知れぬ感情に満ちている。
何だ、これは。
この疼き、歪み、痛み、叫び。
これは一体、何なのだ。
衝撃が去っても尚、脳内の奥底でざわめく何かに、指先一本すら動かせなくなった。
「ずっと、ずっと待ってるんです。もう何年も、何十年も、何百年も…」
永遠に待っているんです。
そう語る彼女の微笑みは、白く白く、酷く魅入られる力を放っていた。
「君は…」
「早く会いたいです」
「誰を…」
「会いたいです」
一体誰を待っているというのか。
それ程に、それ程までに。
この場に縛り付けられ、生まれ変わる事も出来ないまま、一体誰をそんなに待ち続けているというのか。
「会いたいです、会いたいです、会いたいです」
繰り返される呪文に、身動きどころか呼吸すら侭ならなくなって行く。
引き込まれそうになる圧力に逆らったのは、命の保身というよりは寧ろ嫉妬からだ。
触れる事すら適わない、儚くも強力な念に満ちた幽霊。
彼女は何時まであの場にいるのだろう。
愛する人間は疾うの昔に死んでいるだろうに、それでもまだ待ち続けるつもりなのだろうか。
「会いたい」
そう呟いたのは彼女か、それともこの自分か。
引きずられた感情は、果たして本当に彼女だけの想いなのか。
二度とあの場所へ行かない様になってしまったのは、何故なのか。
「会いたい」
自分が彼女の願う待ち人であれば、これ程苦しまずには済んだろうに。
一息吐いて、馬鹿げた考えを振り切る様に首を振る。
それでも離れない声が、脳内で、繰り返し繰り返し響き渡った。