おそろしいひと






底の厚いブーツ音が、リノリウムの乾いた床上を伝わって響いて来る。
ゾッとする様なその振動に、ハルは身を竦ませて物陰に隠れていた。
一体何に使うのかサッパリ解らない様々な代物が、無秩序に並べられている棚と棚の細い隙間。
室内と呼ぶには余りにも広過ぎるその場所は全体が薄暗く、ザッと見た限りでは100以上もの棚が置かれている此処は、ハルが隠れるには最適の場所であった。
けれどその分だけ視界は確実に狭まり、また迂闊に大きな動きをしようものなら、物にぶつかってしまうという危険性も孕んでいる。
出来る限り身動きせず、靴音に合わせて移動するしか、彼から逃げる手段は無い。
「かくれんぼは好きじゃないんだけど」
ボソリと呟かれた言葉に、何時しか喉奥に溜まっていた唾を飲み込む。
体内から放たれたゴクリという音が、相手に聞こえてはいないだろうかと思わず心配になる程、自分の周囲は静寂に満ちていた。
「出てくる気は……ないか、やっぱり」
コツ。
靴音が止まる。
思ったより近くで聞こえた気がして、ハルの心臓は一気に竦み上がった。
ドクドクと身体を駆け巡る血の流れる音が、こめかみを刺激してますます高鳴って行く。
まるで風呂でのぼせてしまった様だ。
眩暈で目の前が暗くなる、あの感覚にとても近い。
「早く出て来た方があんたの身の為でもあるのに、どうして逃げるんだろうな。ウチ、そんなに怖い事言った?」
信じられない台詞を吐きながら、再び靴音が移動を始める。
彼が溜息を吐いた様に聞こえたのは、気のせいなどではないだろう。
徐々に足音の感覚が短くなっている事からしても、彼が本気で探索に入った事は確かだった。
「………」
息を殺して耳を澄ませる。
自分の聴覚に狂いが無ければ、まだ棚5つ分の距離はありそうだ。
とはいえ、油断は出来ない。
長身の彼は見た目に反し、意外に素早く動ける身体を持っている。
ミルフィオーレという組織に属するだけあり、それなりの身体能力は備わっているのだろう。
「ハル」
更に間近で声が聞こえる。
ギクリとして腰を浮かすと、ハルは足音を立てない様にして隣の棚影へと素早く移った。
「…ウチは機械ばかり弄ってるけど、耳は良い方なんだ。ちょっとした不具合なんか、小さな音で解ったりするから。だから―――本気で逃げられると思ってるなら、今の内に諦めた方が良い」
数秒前まで自分が居た場所から、ガンと何かが叩き付けられる物音が届く。
程なくして、反射的に固まってしまったハルの眼前に、周囲より一層濃い影が現れた。
「ひ、っ…」
「見つけた」
爬虫類の様な双眸を光らせ、青年は口元に飴の棒を覘かせたまま笑っている。
「かくれんぼは終了。楽しくなかったって言ったら嘘になるけど、もう逃げないでくれると助かる。時間も惜しいし、そろそろ限界だから」
淡々と紡がれる言葉に、一気にハルの全身が総毛立つ。
慌てて踵を返して駆け出そうとした瞬間、痛い位の握力で手首を掴まれた。
「ウチの言ってる事、理解出来ない?」
骨が悲鳴を上げる程の激痛に、自然と呻き声が漏れ出る。
しかし、それで彼は力を緩めたりはしない。
一度それで逃げ出した経緯があるのだから、二度と騙されてはくれないだろう。
「何ならもう一度言おうか」
「け、…っこうです」
「やっと喋った」
「スパナ、さん…」
横目で見遣った青年は、嬉しそうに顔を綻ばせている。
ともすれば害意が全く無い様に見えるその表情に、どうしても警戒心が緩みそうになるものの、逃げ出す前に聞かされた彼の言葉がそうはさせてくれない。
「それじゃ、部屋に戻ろうか」
グイと引っ張られる感覚に、ハルは思わずその場に足を踏み止まらせた。
が、相手の力の方が勝っているせいで、ズルズルと靴の裏が床上を滑ってしまう。
「まだ抵抗するのか…」
「あた、当たり前です!」
尚も必死で抗うその姿に、スパナは呆れた様にハルを見遣る。
「何がそんなに不満なんだ?」
「不満!?」
先程までの恐怖も忘れ、ハルはキッと青年を睨み付けて叫んだ。
「自分が何を言ったか覚えてないんですか!?」
「ん、覚えてるけど」
「後2晩も完徹しろって言ったんですよ、スパナさんは!」
「うん」
それがどうしたと言わんばかりの態度に、ハルは最早涙目で訴え続けた。
「もう3日も徹夜続きなのに、後2日もなんて死んでしまいます!!いい加減寝かせて下さい!」
「大丈夫、人間一週間は寝なくても何とか保つから」
「それはスパナさんだけです!!ハルはもうギブアップです!自分の部屋に帰りますー!!」
「駄目。まだ作業終わってないし。もう少しで新型モスカが完成するんだ。実験の手伝いの続き、して貰わないと困る」
「勝手に困ってて下さい!ハルはもう嫌です!!」
「だから駄目」
「はひー!人殺しぃぃ!!」
押し問答とも呼べない、怒鳴り声と静かな声の対立は5分も経たずに終了を告げた。
結局、ズルズルとスパナの仕事部屋に引きずられて行ったハルは、それから更に二晩の完徹を強いられる事となる。





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