音として







長い長い眠りの中。
夢すら見られぬ程に深い昏睡状態で、それでも浮かび上がって来る意識がある。
時折、凪という名前を持つ少女の身体を借りて外界に出る事はあるけれども、それとはまた違った感覚のそれ。
どうしようもなく彼女を求める心が、激しく自意識を揺さぶりかけては叩き起こすのだ。
眼を開かずとも自然と見えるその姿に、ピクリとも動かせぬ手を伸ばしたくなる。

あぁ、今日も彼女は眩いばかりの笑顔で居る―――。

「ハル」
呼びかけると、彼女は立ち止まり振り返る。
勿論、今の自分に声など出せるはずもない。
だからこそ声以外の方法で、遠く遠く離れた土地を歩いている彼女を呼ぶ。
思念とも呼ばれるそれに気付いたのか、彼女は立ち止まった。
キョロキョロと、姿の見えない者を探して辺りを見回している。
「ハル。今は無理ですが…」
音を解さない声が、確実に彼女に伝わっている事を確かめ、そうして言葉を紡いで行く。
これは約束でもあり、宣言でもあった。
「何時か、必ず君を迎えに行きますよ」
そう、此処を抜け出して。
どんな手を使ってでも必ず。
本当は今すぐにでも傍に行って、彼女を抱きしめたい。
強い強い想いが、どうしようも出来ない現状に苛立つ事もある。
そんな時は必ずといっていい程、意識だけが勝手に彼女の元へと飛んで行く。
尤も大抵は呼びかける前に、再びこの闇の中へと戻ってきてしまったけれども。
「はひ…」
間抜けた声が、耳を震わせる。
「骸さん…ですか?」
名前を呼ばれた時、身体中の細胞が悲鳴を上げた気がした。
本当に久しぶりに聞く彼女の声は、記憶の中で反芻していたものより断然愛しい音だった。
「骸さん、何処にいるんですか」
必死の声に、心の奥が熱くなる。
自分が想像していたより遥かに、彼女は自分の事を想ってくれていたようだ。
その事実に、不覚にも涙腺が緩む。
けれどそれが零れる事はない。
身体の機能が完全に奪われ、コントロールされている為だ。
だからこそ動く事も出来なければ、涙を流す事も出来ない。
あくまで自意識下の感覚しか、今の自分に自由はなかった。
暗い水中で一人沈んでいるという現実を、彼女に教える事は出来ない。
「骸さん、ハルは寂しいです…。何処に、行っちゃったんですか?」
彼女と会えていた時間は、とてつもなく短い。
それでも互いに芽生えた感情は、今でも変わる事なく存在している。
「すみません。今は、言えません」
「どうしてですか?」
「理由があって。……でも、必ず迎えに行きます」
「………」
彼女は俯いていた。
それは迷っているからではなく、ただただこの自分の身を案じて、そして不安から生じる怯えがそうさせている。
「絶対ですね?」
「絶対に」
「嘘ついたらビンタです!」
「約束します。だから、僕を信じて待っていなさい」
彼女はそこで顔を上げた。
見えないはずの自分と、視線を確かに合わせて。
「はい」
そうして笑った。
何時もの笑顔で、嬉しそうにはにかんで。
「待ってます。だから、ダッシュで迎えに来て下さい」
「ハル…」
そこで意識は途切れた。
続けようとした言葉は霧散し、後は暗闇が広がるばかり。
冷たい水中で、じっと眠り続けるのみ。


ハル。
僕はずっと伝えたい言葉があったんです。
言い出せなくて、後悔してきた言葉が沢山。
此処を出て、君に会えたら。
再び君の傍に在れたら、その時こそは必ず伝えます。

どれ程に君を想っているのか。
どれ程君に焦がれているのか。
どれ程に君を求めているのか。
どれ程君に救われているのか。

それらを余す事無く、可能な限り全部。


だから、早く目覚めなければならない。
彼女の元へと、帰らなければいけない。
この忌々しい鎖を引き千切って、早く。
もっと早く。




暗い暗い、冷たい水の底。
眠り続ける男の瞼が一瞬だけ震えた事に、気付く者はなかった。








戻る