流転せし邂逅に願いを2




耳に掛かった小さな羽音に、スパナは弄っていた工具を床に置き、慣れた仕草で立て付けの悪い窓を開いた。
開き切る前の窓の隙間から、キィキィと鳴き止まぬ蝙蝠が一匹、飛び込んで来る。
「ハル」
呼び掛け、軍手を嵌めた掌をそっと差し出せば、蝙蝠はその上に舞い降りた。
まだまだ成長し切らぬ小動物の姿が、寒いのか引っ切り無しにふるふると震えている。
「あんた一人なんて珍しいな。今夜は狩りに行ったんだとばかり思ってたけど…ハルヨシはどうしたんだ?」
近くに設置されているベッドへと丁重に蝙蝠を置き換えると、震えていた羽音が一瞬止んだ。
「?」
それを疑問に思う間も無く、スパナの目の前で蝙蝠は小柄な少女へと変化した。
血の様に赤い目には涙が溢れ、自分の座しているベッドのシーツを両手で握り締めている。
「…おと、さ…っんは、…ぅ、ひっく」
しゃくり上げながら必死で言葉を紡ごうとするその姿に、答えが如実に現れている。

あぁ、死んだのか…。

続きの出ない言葉に、スパナは答えを知って僅かに目を伏せた。
ハルヨシは、スパナにとって特に馴染み深い仲間だ。
その昔―――もう十何年になるだろうか、しがない機械工であった自分を、此方の世界へと引き入れた張本人である。
鄙びた町の、その更に外れにある、寂れた機械整備工場。
もうおぼろげにしか覚えていないが、父親から受け継いだその工場で働く作業員は、自分一人だった。
以前は父の仲間が手伝ってくれたりする時もあり、それなりに従業員も居て賑わっていたのだが、父の死後、不況の波が訪れ、その煽りを食らって客足も途絶えがちになったのだ。
そのせいで、スパナが経営する頃には、ひと月に5〜6人客が来れば良い方だったと思う。
当然大した稼ぎになるはずもなかったが、自分のペースで仕事が出来る状況は性に合っていたし、自由気ままな生活が気に入っていたから別段構いはしなかった。
ただ生き延びる事が出来て、偶に自分の趣味に使用する工具や部品が買えればそれで良い、そう思っていた。
しかし、そんな生活に終止符が打たれたのは、客からの成果報酬を受け取った日の深夜帯。
微かな物音が眠りの世界からスパナを引き上げ、それにつられて身を起こした時だった。
首筋に突き付けられた、氷の様に冷たい金属に、何度か目を瞬いた事は今でも覚えている。
「悪いな、スパナ…」
酷く掠れた声は聞き覚えのあるものだった。
この工場がまだ父親のものだった頃、懸命に働いてくれていた作業員の一人だ。
喋り方や声のトーンに特徴があり、いつも賑やかに周囲を笑わせていた男で、父親の最期を看取ってくれたのも彼だった。
その彼が何故今、この部屋の中に居て、自分にナイフを突き付けているのだろう。
寝起きのぼんやりした頭で考えても答えが出て来ず、仕方なしに口を開いた瞬間、突き付けられていたナイフが強く、真横に引かれた。
「こうするしか、ないんだ。もう…家族を食わせるには、こうするしか…!!」
男の叫びと、鈍い、肉を裂く音。
冷たい感触の後は、迸る熱い奔流に口が塞がれた。
痛いとは思わなかった。
ただただ、熱い何かが急速に身体から抜け落ちて行く、そんな感覚に、スパナは床へと仰向けに倒れ込んだ。
その時、右手が咄嗟に掴んだシーツは何故かべっとりと粘ついた何かで濡れており、鉄錆の匂いが鼻に食い込んで来る。
口を開いても、漏れ出るのは喉から逆流した血液のみで、言葉は出て来ない。
パクパクと、酸欠の金魚の様に何度も開閉するだけの口は呼吸すら行わず、思考はどんどん薄れて行く。
ウチ、死ぬのかな…。
ぼんやりと考えた言葉は、たったそれだけ。
あんな状況下でも、不安や焦りが全く無かったのが思い出され、おかしくなる。
死ぬのが怖くなかった訳ではない。
ただ、余りにも急すぎて、事態の展開に思考が追いつかなかっただけなのだろうと、今は思う様にしている。
徐々に暗くなる視界が捉えたのは、その日の成果報酬が入った封筒を手にした昔の仲間と、それに襲い掛かる黒い影だった。
「スパナさん」
ハルの呼び掛けに、スパナは我に返って顔を上げた。
それまで頭に浮かんでいた昔の情景は消え、目の前に見えるのは、あの時の黒い影に良く似た風貌を持つ娘の顔。
「ん」
あの夜、スパナは一度死んでいた。
金に困った昔の従業員が、スパナを殺して金を奪い取ったのだと知ったのは、それから数日後の事で、それを知っても尚、別段男に対しての憎悪や負の感情は全くと言って良い程に沸いて来なかった。
死体となった―――正確にはなり掛け寸前だったスパナは、結局今こうして生きているのだから。
「すみません。突然来て、作業の邪魔してしまって…。でも、スパナさんのところしか…来る所、思いつかなくて………本当に、御免なさ……」
乾かない涙を流して嗚咽を漏らす少女の姿に、スパナはそっと手を伸ばす。
あの時、死に行く自分に人間とは違う生命を与えてくれたのは、この娘の父親だった。
途切れた意識が回復した時には既に、スパナは不老不死に近い肉体となっていた。
ハルヨシと名乗った吸血鬼曰く、自分を助けたのは単なる気まぐれだそうだ。
あんな場所に一人で生活している青年に興味が沸いたのだと、そう笑っていた。
それが嘘であろうと本当であろうと、今となってはどちらでも構わない。
今、自分が生きているのはハルヨシのお陰な事には変わり無いのだから。
本人が既にこの世に居ないと言うのであれば、その恩返しは彼の娘であるハルにするべきだろう。
そんな理由を付けて、スパナはハルを優しく抱きしめた。
仲間が死ぬのは、今に始まった事ではない。
不老不死に近いとはいえ、吸血鬼も死ぬ時は死ぬ。
吸血鬼狩りを行う人間に殺される事もあれば、血に飢えて暴走を起こした挙句、狂って死亡する者も居る。
年を取りにくく、人間よりは遥かに優れた肉体を持ってはいるが、その分精神は弱く脆い。
下等吸血鬼は人間の形を保つ事すら出来ず、醜い姿態で人間が住む街中を徘徊していたりする。
精神と肉体のバランスが保てる吸血鬼は、実は然程居る訳ではないのだ。
その数少ない高等吸血鬼仲間の死亡、特に自分と縁の深い者の消失に悲しいと思うのは自然な事で、スパナも表情にこそ出さないが、ハルヨシの死を悼んでいた。
「誰に」
「はひ…」
「ハルヨシは、誰にやられたんだ?」
抱きしめているハルの身体が震える。
否、震えているのは自分か?
悲しみと、僅かな怒りにスパナは眩暈を覚えた。
自分がこんな感情を抱く事も驚きだが、人間を殺したいと思ったのはこれが初めてだ。
「ヴァリアーの、確か、ベルフェゴールという人です」
相変わらずの泣き声ではあるが、ハルの声はしっかりと返って来た。
名前を呟く際に篭った感情を見逃さず、スパナは記憶を辿る。
「ベルフェゴール…。あのプリンス・ザ・リッパーの異名を持つ人間か」
聞いた事がある。
この世界最大の栄華を誇る、ありとあらゆる魑魅魍魎退治を得意とするボンゴレ教会の、エリート中のエリート、ヴァリアー。
その中でも特に最近噂となっているのが、確かベルフェゴールという名の人物だった筈だ。
人間離れした身のこなしに加え、大量の小型ナイフでの格闘を得意としていると云われている。
常に前髪が目元を隠している為、その素顔を見た者は数少ないと、彼は別の意味でも有名だった。
「…そんなに、知名度がある人間なんですか…?」
ハルの不安気に揺れる目元が、しかし強固な意志を持ってスパナを見つめている。
「まぁ…人間の中ではかなりの人気があった筈だ」
「人気………」
ポツリと呟かれた言葉に、スパナはハルの身体に回していた腕を解く。
「ハル?」
何を考えている…?
声無き問い掛けに、ハルは荒んだ表情で笑い返した。
「それなら、ハルの方から見つける事も簡単そうですね。サーチはハルの得意技ですから」
先程まで酷く泣いていた少女と同一だとは思えない程、今のハルの赤い瞳は、乾いて、爛々とした、ギラついた光を放っていた。




不意に脳裏を掠めた赤い光に、ベルフェゴールは反射的に背後を振り返る。
「何だい?」
しかし其処に居るのは、あの吸血鬼の少女ではなく、黒いフードを目深に被った赤ん坊。
眼を瞬かせて見直してみるも、光景は変わらない。
「…あれ?マーモン、居たんだ」
呆けた様な台詞に、赤ん坊は気分を害した表情で口をへの字に曲げた。
「失礼だな。さっきからベルと喋っていたじゃないか」
「そうだっけ」
記憶を探ってはみるものの、どうにも思考が落ち着かない。
うろうろと彼方此方へと彷徨うばかりで、一向に止まらずにベルフェゴールを責苛む。
「聞いてるのかい?」
「ん、あー…ちょっとダメかもしんね」
落ち着かない原因がハッキリと解っている分、余計に性質が悪い。
「わり、マーモン。先にボスんとこ行ってて」
「…重症だね。仕方ない、報告はボクだけで済ませておくよ」
「サンキュ」
「この借りは高いよ、ベルフェゴール」
「ふざけんな」
軽口を叩き合っている最中でも、チラチラと見え隠れする光に、片手を軽く振って歩き出す。
マーモンはそれ以上何も言わず、溜息を吐いて反対方向へと去って行った。
赤ん坊の気配が完全に消えたのを確認すると、宙へ浮かせていた掌を顔面へと覆い被せる。
「やっべ、何だコレ…」
あの時見た、濡れた灯りが一向に消えない。
何故これ程までに、あの赤い目が気になるのだろうか。
吸血鬼は持ち前の力を具現化する時、その瞳孔は血の様に赤く染まる。
まるで身体中を流れる血液が瞳に集中でもしたかの様に。
彼等と対峙する機会の多い自分は、その光景を何度も何度も繰り返し見て来た筈だ。
それは時として恐怖に歪む事もあれば、自分が死んだ事にすら気付かずに愉悦に浸ったまま永遠に時を止める事もあった。
「あ」
相変わらずブレたままの思考の中、ふと気付いた事実に声が洩れる。
「そういえば、獲物逃がしたのって、初めてじゃね?」
やけに区切られた言葉に、薄っすらと視界が細められる。
そうか、これが原因か。
らしくもなく、この自分が獲物を逃がしてしまった。
吸血鬼は一度だって見逃した事の無い、この自分が、だ。
「ししっ。なーんだ、そんなら話は簡単じゃん?」
知らずして安堵の息を吐き、ベルフェゴールはニィと独り哂う。
「見つけ出して、殺せば良い」
そう、たったそれだけの事。
今までと同じく、他の吸血鬼達と同じく、自分なりに楽しみながら、速やかに始末をつける。
ほら、これで解決だ。
揺らめいていた視界が、急速に鮮明さを増して行く。
当面の獲物と定めた少女の顔が、漸く固定化されて目の前に現れた。
無論、本物ではない。
ベルフェゴールの記憶から探り出された姿にしか過ぎないそれは、しかし確実に彼の殺意を甦らせて行く。
毎度感じる興奮とは多少異なる、奇妙な高揚感にやや引っ掛かりは覚えるが、そんなものは関係無い。
ただただ、心底嫌悪すべき種族をこの世から抹殺出来れば、それで良いのだ。
人間と同じ様に泣けるからとて、吸血鬼は吸血鬼。
奴等は、人間の天敵なのだ。
それならば、何があろうと殲滅させてやる。
それがヴァリアーに拾われた自分の、最終的な目標なのだから。
袖から引き出したナイフを幻に突き立てると、少女の姿は瞬時に霧散して消えた。


「どうして、どうして、どうして自由にさせてくれないの。私は、私の好きな様に行きたいの、愛する人の傍に居たいの。それが何故、いけないの?」
父を庇って死んだ母の悲鳴が、遠く、遠く聞こえて来る。
「愛など、そんなものはただの願望に過ぎない。お前は愚かだ。愚かだな、セイレーン」
黒い影が嘲笑を貼り付けて追い掛けて来る。
当時、力の無かった自分にはそれは恐怖でしかなかった。
立ち向かおうにも、身体がピクリとも動かないのではどうともし様が無い。
母の力に、何故、と小さな自分が叫ぶ。
黒い影と自分達の力量差は明白で、それに対抗するには少しでも多くの力が必要な筈だ。
それなのに何故、自分には何もさせてくれないのか。
適わないまでも、抵抗する事は出来る。
例えそれで死ぬ事になろうとも、家族が殺されるのを黙って見ているよりは余程マシだ。
「ボスに連れ戻す様に言われたが、仕方無い。お前は最早我等の敵だ。生かしておく必要はないだろう」
振り下ろされた手が、視界を赤く染める。


遠い記憶が完全に浮上する前に、ベルフェゴールは染まった視界と共に思考を断ち切って空を仰いだ。
今の自分を形作った過去等、今更思い出す必要の無いものだ。
昔は頻繁に夢に見て飛び起きたものだが、この年になれば流石にそれも無くなった。
「殺さないとなー…だってオレ、王子だし?」
プリンス・ザ・リッパーの名は伊達ではないと、皆に証明しなければならない。
絶対的な力の差を、吸血鬼共にも見せ付けてやるのだ。
「今度はねーよ?ハル」





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