最後の砦と最終形態
カニバリズムとは?
元は愛欲が高まり食したものだとも、埋葬の一種だとも言われている。
他人の血肉を自分へと還し、一体化する。
これ程の愛が、果たしてこの世にどれだけあるだろうか。
パタパタ、と床の上に滴り落ちる血液の音に、白蘭は薄っすらと目を細めて笑っていた。
「―――ハル?」
呼ばれて振り返った瞳には、一片の曇りも無い光しか宿って居ない。
其処に在るのは、至って正常な狂気。
外の陽光の下を歩ける、そんな彼等の様な通常の人間は持ち合わせられない、深層心理最奥部に辿り着いてしまった者だけが持てる、そんな笑顔。
ふわりと綻んだ顔は、迷いも悩みも全てが浄化された代物だった。
「嬉しそうだね」
「はひ」
カシュリ。
まるで果物でも齧るかの様な酷く甘い音に、ハルの両目が酔いにまどろむ。
口端から、顎から滴り落ちる赤い雫は、とめどなくその両手を濡らし、彼女の着ている服へと染み込んで行った。
元々が暗色系の色だった布地は、乾いてこびり付いてしまった血液によって、更にドス黒く染め上げられている。
それだけならまだしも、後から後からパタパタと新たな色が降って来るのだから、凝固による染色作業は止まらない。
「ふ、ふ…ふ」
ヌラリと、室内の蛍光灯に光る両手を掲げ、ハルが笑う。
「ヒバリさん」
「ヒバリさん」
「ヒバリさん」
もう疾うの昔に事切れてしまった男の名を呼び続け、続け様に新しい肉片を口に運ぶ。
ずっと、その繰り返し。
何度も同じ光景を見せ付けられている身としては、最初の内こそ面白かったものの、次第に飽きが回ってくるというものだ。
そしてそれ以上に、脳の奥底で燻る嫉妬心が、そろそろ限界点に達しようとしていた。
「雲雀君はズルイなぁ…」
「?」
「ハルにそれだけ愛されてるんだから」
肘掛に頬杖を付いた格好で、白蘭が拗ねた様に軽く口を尖らせる。
彼のそんな表情が可笑しかったのか、ハルは僅かに小首を傾げて口元を緩ませた。
「ヒバリさんは、ハルの愛する人ですから」
「全部食べちゃう位なんだから、相当なんだろうね」
「勿論です。何もかも全て。パーフェクトに、ですよ。ハルはヒバリさんの全てが欲しいんです」
「凄い独占欲」
「相手がヒバリさんですから」
指先に付着した赤い汁を丁寧に舐め取ると、ハルは床に転がっていた左手の薬指を丁寧に持ち上げ、その爪先にキスを落とす。
新たな血が通う事の無い冷たいそれは、赤く汚れているにも関わらず、とても白く輝いていた。
どうしてだろう。
彼はこの世に居なくなったというのに、今も尚、ハルの傍で彼女を見守っている気がする。
彼女の胃袋に納まって小さくなった筈なのに、どうしようもなく大きく目の前に聳え立っている気がする。
あぁ、これが敗北感か。
彼女の愛を勝ち取ったのは彼で、彼女の身体を勝ち取ったのも彼だ。
これから先、自分がどれだけハルを抱こうと、愛そうと、彼女は常に雲雀と共に在る。
残された道は、全てが塞がれてしまった様なものだ。
「判断を間違えた、かな」
唆したのも嗾けたのも、この自分。
ハルを責める事は出来ない。
それならばもう、笑うしかないではないか。
「美味しい、ハル?」
ハルを失い、乾ききった心で白蘭は疑問を投げ掛ける。
返って来たのは、雲雀の血で潤い、満たされた極上の笑顔だった。