咲くもの
ハルは浴衣を着ていた。
それに加えて可愛らしい草履で小走りに、待ち合わせ場所まで駆けて行く。
約束の時間まで後1分。
やがて花弁の代わりに青々とした葉を成らせた桜の木下に、目当ての人物が立っているのが見えてくる。
「危なかったね」
息を切らせて到着したハルを、風紀委員の腕章をつけた少年は薄く笑って見下ろした。
「後1秒でも遅れていたら、帰ってるところだったよ」
「はひっ…。すみません」
ゼーゼーと肩を上下させるハルの頭にポンと片手を置き、雲雀は先に立って歩き出す。
ハルは慌てて後に続いた。
「ヒバリさん、やっぱり制服なんですね…」
甚平姿を密かに期待していたハルは、少し不服そうに口を尖らせる。
「嫌なら帰るよ」
「冗談です!」
此処で帰られては堪らないとばかりに、ハルは雲雀の腕に飛びついた。
散々苦労して雲雀を呼び出せたのだ、あの努力を無駄にしたくはない。
何時もなら素気無く断る雲雀は、しかし今回は何故か妥協してくれた。
あっさりとデートの了承を貰ったハルは、逆に面食らった程だ。
時間は19時過ぎ。
そろそろ打ちあがる時間だ。
辺りには屋台が軒を連ねている。
子供も大人も、皆が何かを心待ちにしている顔つきだ。
年に一度しかない大祭りのおかげで、屋台の前には大勢の人だかりが出来ていた。
その中を雲雀と歩いて行く。
恋人らしく、腕を組んで。
雲雀は拒絶せず、ただ真っ直ぐに前方だけを見据えている。
それが少し残念だったが、ここまで進歩した関係にハルは顔を綻ばせる。
人の群れが大嫌いな雲雀だったが、こうして一緒に只中を歩いてくれている。
それだけで十分だ。
「ヒバリさん、あっち林檎飴が売ってますよ!」
「あ、綿菓子だ」
「あれは何でしょう?」
屋台の前を通り過ぎる度、ハルは立ち止まっては覗き込む。
雲雀は止まってくれない為、腕を放す事もしばしばあった。
そのせいで、気付けば雲雀の姿を見失ってしまっていた。
「はひ!?」
ハルがカキ氷を両手に振り向いた時にはもう雲雀の姿はなく、彼のいたはずの空間には親子連れが楽しそうに頭上を見上げている。
突如、ヒュルルと空を切る音が耳に届く。
次いで、辺りを振動させる赤色の花が咲いた。
「ママー、花火ー」
隣にいた子供が空を指差している。
「始まっちゃいました…」
ハルもまた頭上を仰いで小さく呟いた。
出来れば、最初の一発は雲雀と一緒に見たかった。
「ヒバリさん、何処に行っちゃったんでしょう」
ハルは人ごみを縫う様にして歩き出した。
その合間にも、空では次々と華麗な花火が展開されている。
ドンドンと腹に響く振動を感じながら、首を辺りへと巡らせる。
気付けば屋台から遠く離れた、人気の無い寂しい場所に出ていた。
もしかしたら人の群れに嫌気が差して、此処ら辺にいるかもしれない…。
頭上で咲いては散って行く花火のおかげで、静かなこの場所でも視界は割りと明るい。
「ヒバリさんー」
花火に負けじと大声で呼ぶ。
植林された木々の間を覗き込んだり、今は既に使われなくなっている倉庫へと顔を突っ込んだりしてみるも、何処にも雲雀の姿はない。
「うぅ…」
何で腕を放してしまったのだろう。
あんな人の多い場所ではぐれたら、見失うに決まっているではないか。
色々と後悔が押し寄せてくるも、今更愚痴っても始まらない事だ。
「よし、頑張ります!」
殆ど溶けてしまったカキ氷の入ったカップを握り締め、ハルは気合を入れた。
「ヒーバーリーさーんー!」
最大級の声を張り上げると、不意に肩を叩かれた。
パッと明るい顔になったハルは、しかし振り返って戸惑いの表情を浮かべる。
其処に立っていたのは、如何にも柄の悪い男達だったからだ。
「カノジョ、一人〜?」
ニヤニヤと下卑た笑いを顔に貼り付ける男は、ハルを真正面から見下ろした。
「放して下さい」
ハルはムッとして、未だ肩に乗せられている手を払いのける。
「おー怖。イキがいいねぇ」
男は態とらしく肩を竦めた。
1人、2人、3人…5人。
ハルはじりじりと後ずさりながら人数を数えては、逃げるタイミングを計る。
しかしそれを見越したかの様に、男の腕が伸びてくる。
ハルは咄嗟に両手にしていたかき氷を相手へと投げつけ、男達が怯んだ一瞬を見計らって逃げ出した。
「おい!」
氷水を顔面にぶちまけられた男が、怒りに顔を歪めて追いかけて来る。
ハルは屋台の明かりを目指し、必死に走った。
けれど軽装な男達の方が僅かに有利で、後少しで追いつかれそうになったその時――。
「人の連れに何してるのかな」
ハルを背後に庇う様にして、雲雀が男達の前に立ち塞がった。
「ヒバ…っ」
「全く。探したよ…」
雲雀は男達に目を向けたまま、呆れた様に呟く。
ハルはカチンと来て言い返そうとしたが、雲雀の息が僅かに乱れている事に気付いた。
それと同時に、雲雀のこめかみを伝う汗が目に入る。
…もしかして、走り回って探してくれていたのだろうか。
そう思うと、そんな場合ではないというのにハルの顔は自然とにやけてしまう。
雲雀が自分の為に一生懸命に何かをしてくれるなど、考えもつかなかったのだから。
「何だァ?騎士気取りでカレシご登場かよ」
男達は雲雀を前にしても、全く怯む事なく笑った。
「そういうそっちは、まるで悪役そのものだね。それも下っ端クラスの」
雲雀の嘲笑に、男達の顔が憤怒に染まる。
わざわざ相手を怒らせる事を言わずとも良いものを、とも思うがこれが雲雀だった。
「やっちまえ!」
本当に下っ端クラスが言いそうな台詞を吐き、男達が一斉に襲い掛かってくる。
中には何処で拾ってきたのか、鉄パイプだの長大な木材だのを手にしている者もいた。
「つまらない…」
うんざりした呟きを漏らすと、雲雀はトンファーを次々と男達へと叩きつけていく。
ハルを人質に取ろうとした男もいないではなかったが、彼らはそんな暇もなくトンファーを受けて呻いて倒れていた。
「ねぇ。いくらなんでも、もうちょっと手応えあっても良いんじゃない?」
弱すぎると、雲雀は再度溜息を吐いた。
男達を伸した時間は一分にも満たなかったのではないだろうか。
それ程、雲雀は素早く相手を地に沈めていた。
「怪我は」
ポカンと口を開けていたハルは、雲雀が此方を向いている事に気付いた。
「はひっ、ああありませんっ」
トンファーを仕舞った雲雀はゆっくりと歩いてくると、ハルの前で立ち止まった。
その息はもう乱れてはいない。
じっと此方を見下ろしてくる視線に、ハルの心臓が音を立てる。
「僕が怖い?」
先程の戦いか、今の自分か。
恐らくは両方の意味を込めて、口元に微かな笑みを浮かべて尋ねる雲雀に、ハルは勢い良く首を横に振った。
「凄く、格好良かったです」
へらーっとした笑みでハルは応える。
その表情に、雲雀は毒気を抜かれた。
雲雀の笑みの意味を、全く理解していないと解ったからだ。
普通の女子中学生は、先程の戦いぶりを見ると大抵が腰を抜かす。
そうでなくとも、喧嘩ばかりを繰り返す自分とは付き合っていられないだろう。
恐怖の方が先立つはずだから。
しかし、ハルは真正の天然少女だった。
雲雀を好きだという自覚が、恐怖を麻痺させているのかもしれない。
どちらにせよ、これぐらいで自分からは離れる事はないのだと、良く解った。
その事に、少しだけ安心している自分に気付く。
「ヒバリさん、やっぱり強いです。あの人達がガーッて来たら、こう、ひょいってかわして」
雲雀の心境等お構いなしに、ハルは戦闘の様子を一人芝居で再現している。
クスリと笑うと、雲雀はそんなハルの手を取り歩き出した。
「はぇ?」
雲雀が自分から手を繋いでくれた事に、ハルは目を丸くして相手を見上げた。
「君はこうしていないと、いなくなってしまうみたいだからね」
先程と同じく、前方を見据えて歩く雲雀の顔にハルは見とれた。
その横顔には、思いがけず優しい笑みが浮かんでいた為だ。
夜の空には、色とりどりの花火。
それらは皆、地上で手を繋いでゆっくりと歩く二人の姿を、鮮やかな色彩で照らしていた。