旋律は繋がりて8
インターネットという物に繋ぐのは、随分と久しぶりの事だ。
白い画面に無数の情報が流れるその場所に接続し、スパナはそれまで忙しなく動かしていた指先を静止させて、じっと画面に見入っていた。
「明日か…丁度良いかもしれないな」
天気を示す太陽のマークが表示されているページを眺め、小さくボソリと呟く。
普段は縁遠い天気予報も、今日は少しばかり有難い。
早々に目的の情報だけ手に入れると、スパナはそのまま腕に付けた通信機に手を伸ばした。
何度かの呼び出し音の後、あからさまに不機嫌な表情で現れたのは正一だ。
「何だ…?」
「ん、珍しいな。あんたがそんな顔で呼び出しに応じるなんて」
「僕だってそんな時ぐらいある。で、用件は?はるなら今居ないぞ。…白蘭サンの所だからな」
「うん、それは知ってる。今日は正一に頼み事があるんだ」
スパナの改まった表情に、正一は胡散臭げに目を細める。
「はるを一日、外に連れ出したいんだ。明日」
「……それはまた、急な話だな」
唐突な申し出に、案の定正一は難色を示す。
当然だ。
元々、はるはこの施設から出てはいけない存在なのだ。
クローン人間というのは数々の倫理違反、道徳的問題が多い存在である。
科学技術が進歩した今の時代であっても…否、ロボット工学が進んだ今だからこそ、尚更に認められてはいない。
前回地上に連れだせたのは、あくまでもミルフィオーレの管轄にある地域限定、それも監視員とたった2時間という制限時間付きというオマケがあったからこそ、漸く許可が出たのだ。
今回は出来ればミルフィオーレの敷地内ではない場所、それも丸一日を使ってはるを連れ出す計画だ。
正一もそう簡単には許可を出さないだろう。
そう踏んでいたからこそ、何度でも頼むつもりでスパナは腹を据えて掛かるつもりでいた。
「……外、か。それは…あぁ、駄目だな。いやでも、何とかなる…か?」
だからこそ正一が迷いを見せたのは驚くべき事であり、同時にスパナに不安を抱かせるには充分な事だった。
以前はあれだけ渋っていたというのに、これはどうした事だ。
「白蘭サンに…いや、それはまずい。……スパナ、明日と言ったな」
「あ、うん。明日、丸一日…最低でも10時間は欲しい。この建物の敷地外に出るから」
「10時間か…最長でも13時間が限度だな。それ以上は白蘭サンにも気付かれる」
「…ん?白蘭に黙ったまま連れ出しても良いのか」
「そうしないと、許可は絶対に下りないぞ」
眉間を押さえたまま話す正一の顔に、疲労の度合いが深い事が見て取れる。
「あぁ、それと…施設の外に出すと言ったな。まさか管轄地域を出るつもりか?」
「うん」
「それは駄目だ。施設の外だけなら良いが、地域外には絶対に出るな。ボンゴレの者に見つかる可能性がある」
「ボンゴレ…」
「それだけを守れるのであれば、許可を出そう」
スパナの疑問を遮る様に言葉を被せる相手に、軽く肩を竦めて頷く事しか出来ない。
「解った。それで良い」
「念の為、今回も監視員は付けさせて貰うぞ」
「うん。それじゃ明日朝10時には出るから」
「あぁ、手配しておくよ」
プツンと小さな音を立てて切れた通信装置を眺め、スパナは一息吐くと視線をノートパソコンへと移した。
ディスプレイに表示されている鮮明な画像の中に、平凡な景色が展開されている一枚の写真が見える。
スパナもかつて一度しか見た事の無い、見事な位に何もない単なる平原。
明日は其処に行くつもりだった。
「此処ならまだ、管轄外にはならないだろうしな」
片手でパソコンを引き寄せながら、スパナは写真にじっと見入った。
この写真が撮られたのは、恐らく初夏に入ったばかりの頃なのだろう。
青々とした草が高く天に向かって伸びていて、寝転がりでもしたら何処に誰がいるのか解らない程だ。
何の変哲も無いこの場所を、誰がオンライン上に掲載したのかは知らないが、久しぶりに見たその風景はスパナの心を軽く沸き立たせていた。
春先の暖かい今の気温であれば、はるも此処でのんびりと遊べるだろう。
本当は他にも色々と連れて行ってやりたかったのだが、時間の余裕が余り無い。
「懐かしいな」
忘れて久しい過去の風景を脳裏に思い描き、スパナは一人笑ってノートパソコンを閉じた。
翌朝、施設前に立っていたのは監視員とはるだけでは無かった。
珍しくも正一自らが見送りに来ていた事に驚き、スパナは駆け寄って来ていたはるの頭を撫でるのを忘れてしまっていた。
「…心配なのは解るけど、正一。あんたが此処に居たら、上にもバレるんじゃない?」
「僕だって、その辺りはちゃんと考慮している。心配する必要はない」
不機嫌そうな表情は昨日と変わらないが、はるの手前だからか言葉に棘が含まれていない。
色濃かった疲労も、今日は僅かながらに回復している様に見えた。
「ん。なら良いんだけど…はる。久しぶり」
「すぱ、お久しぶりなのです!」
嬉しそうに頭を摺り寄せてくる子供を撫でながら、スパナもまた目を細めて笑う。
「最近は忙しかったみたいだな」
「はひ。びゃく…白蘭さんのお手伝いとか、お話とか、色々してたです」
多少おかしな所はあるものの、敬語も大分さまになってきている。
白蘭と正一の為に、日々努力しているのだろう。
スパナと話していても、彼等の前ではるが敬語を崩す事は無かった。
それに多少の寂しさを覚えつつも、スパナは笑ったままはると手を繋ぐ。
「正一さん、それでは行って来ます!」
元気の良い挨拶と振られる手に、正一は小さく笑って手を振り返した。
「うん、気を付けて行っておいで。……あぁ、スパナ」
「ん?」
二、三歩進んだ所で止まり振り返ると、正一の真剣な表情とぶつかった。
何処か思い詰めた様な、そんな危さが潜むその顔にスパナは軽く目を瞬かせる。
「恐らく大丈夫だろうとは思うけど」
「?」
「雨が降る前に、必ずはるを連れて帰って来てくれ。時間に余裕が有ったとしても、だ」
正確な発音と低い声が、やけに強調してスパナの耳に届く。
まるで正一の懸念が、そのままダイレクトに響いてでもいるかの様だ。
「勿論。ウチも、風邪を引かせたりしない様に気をつけるつもりだし」
「頼むぞ」
「了解」
短いやり取りの中で交わされた約束に、はるは不思議そうな顔で二人を見上げていた。
監視員はただ黙したまま、子供の手を引いて歩き出したスパナの後を一定の距離を置いてつけていく。
そんな三人を見送り、正一はゆるりと空を仰いだ。
普段は眩しく感じられる太陽が、今日は何故か暗く翳って見える。
空には雲ひとつない良い天気だというのに、正一の目に掛かった不安と云う名の薄いフィルターが、青い空も灰色へと変えてしまっていた。
或いはそれは、彼なりの予知だったのかもしれない。
悪い予感ほど、やけに的中するものだ。
約10時間後、正一はそれを身をもって知る事となる。
眼前に広がるのは、柔らかな草の海。
まだ然程長くはないものの、それでも立派に薄緑の葉をそよがせている。
ヒラヒラと一枚一枚の草が揺れる様は、はるだけでは無くスパナの目までも楽しませてくれた。
公共機関を駆使する事、きっかり3時間。
漸く着いた土地は、昔と変わらずその場所に在った。
草ばかりで全く華の無い平凡な風景。
けれど、喜んでいる子供の傍にいると、そんな平坦な世界も妙に美しく見えるのが不思議だった。
「はひー」
はるの声が風に乗って、緑の海原を駆けて行く。
それまでキョロキョロと四六時中首を辺りへ巡らせていた子供は、今度は逆に目を輝かせてその光景に魅入っていた。
「綺麗だね、すぱ」
「ん。後2〜3ヶ月もすれば、もっと色彩も鮮やかになって良いんだけど」
途中何度もナビゲーターの役割を果たしたノートパソコンを片手に、スパナは片手を目の上に掲げて遥か遠くを見渡す。
記憶が正しければ、この平原の先に川が流れていた筈だ。
上流から流れてくる水は清らかに澄んでおり、川底にいる魚影も正確に見る事が出来た。
あのまま変わりがない様ならば、其処で弁当を食べるもの良いだろう。
「すぱ、あれは何?」
スパナの袖を掴んだまま、はるは上空で静かに舞っている鳥を示す。
下から見上げた飛翔姿は小さく、その鳥が相当高い位置に居る事が解る。
「あれは…鷲だな」
「鷲?でも鷲って図鑑で見たけど、こんなに大きいよね。それに、あんなに黒くなかった様な気がするよ?」
両手を広げて大きさを計る子供の頭をポンと軽く叩き、スパナは視線を地上へと落ろす。
「光線の加減で小さく、黒く見えるだけだよ。実際はそれぐらいある。…後は、遠近法というやつだな。上空や海中では余計に歪んで見えるから、目だけでは測り難いんだ」
「はひ。そうなんだ」
知識だけでは理解し得ない体験に、はるは感心して再び空を見上げた。
丁度正午になろうかという時間の太陽は、柔らかな日差しを地上に降り注いでいる。
白く温かな光に、はるは笑ったままスパナに抱きつく。
「外ってこんなに綺麗なんだね」
「うん」
「空も、本当に青いんだ」
「…前に外に出た時は雨が降ってたからな」
「あの時はお空、真っ暗だったね。でもはる、雨も好きだよ?ピタピタって顔に当たるの、くすぐったくて面白いの」
嬉しそうに両手を天に広げて伸ばす子供の後姿が、不意に白金の光に融けて消えた。
白いワンピースが光を吸収し輝いたせいでそう見えたのだろうが、それでも瞬間的に目の前から居なくなってしまったはるに、スパナは慌てて手を伸ばす。
「はひ?」
ぐいと腕を引かれて戻された子供は、きょとんとした表情を此方に向けている。
「すぱ?」
「………」
不安が。
背筋が凍る程の恐怖と不安が、スパナの腕を動かしていた。
「すぱ、どうかした?」
心配そうな眼差しの、澄んだ瞳。
小さいながらも精一杯に、喋る唇。
以前も感じた、はるがこの世から居なくなってしまうのではないかという疑念。
心臓が早鐘を打つ度にスパナの腕は震え、本人の意思とは関係無く勝手にはるを強く抱き締める。
無言のスパナを暫く見上げていたはるは、ふと視線を平原へ落として笑った。
スパナからは見えないその顔は、酷く大人びた表情で寂寥感に満ちている。
「はるね、大きくなるんだ」
ポツリと話し出した言葉は小さく、下手をすれば風に紛れて聞こえない程だ。
それでもスパナは子供を抱き締めたまま、小さな小さなその言葉に耳を傾ける。
「大きくなって、びゃくやしょーの役に立つの。それが、びゃく達の望みだから」
一際大きく吹き上げた風が、草々を揺らせてざわめかせる。
あぁ、煩い。
はるの声が聞こえなくなってしまうではないか。
「はるも、そうしたいって思う。でも、びゃくとしょーが望むのは、はるじゃないの。はるだけど、はるじゃない。誰か、別の人」
小さな声が震えた様に聞こえたのは気のせいか、それとも吹き続ける風のせいか。
「今のはるの中にね、その人がいるの。考えてる事、見て来た事…全部じゃないけど、少しだけその人の事が解る」
少しずつ吐き出される語りが、はるを痛め付けている。
本当は言うのさえ辛いだろうに、それでも言わずには居れないのだろう。
何という仕打ちだ。
「びゃくもしょーも、その人が凄く好きなんだね。大好きで大好きで、だからもう一度、会いたいって願うんだね」
今はるはどんな顔をしているのだろうか。
どんな想いで言葉を紡いでいるのだろうか。
「はるも、びゃくとしょーが大好きだから、その気持ちは解る。解るんだよ、すぱ。でもね、でもそれなら―――はるは…はるは一体、何の為に生まれてきたんだろうね」
はるは、はるなのに。
はるのままで居たいというのは、贅沢な事なのかな。
身代わりの為に生まれて来たというのであれば、何故はるという人格が作られてしまったんだろう。
消えたくない、消えたくないよ。
はるは、はるのままで。
ずっとはるのままで、皆と一緒に居たいよ。
ずっと、ずっと、ずっと。
スパナがいれば、最後まで自分のままで居られると笑っていた子供の本心が、今、痛い程に伝わって来ている。
乾いた瞳のままで再び空を見上げるはるの姿に、スパナは顔を歪ませて黙した。
何かを言わなければいけないというのに、こういう時に限って言葉が出て来ない。
はるの言葉は何もかもが断片的で、実際に彼女が何を掴んでいるのか、何を知っているのか等、スパナには知る由も無い。
それでも、はるが苦しんでいる事だけは解った。
そんな子供に、一体何を言えば良いというのだろうか。
「はるは…」
悩んだ末にスパナが口にしたのは、考えて出した答えではなかった。
ただ、はるが余りにも空を見上げるものだから。
だから、自然とそんな言葉が出ていた。
「はるは、これを見る為に生まれて来たんだ」
これとは、何も空だけを指していた訳ではない。
あるのは草と川だけの平凡な風景、太陽、そして青い空。
スパナ自身を含めた、全てのものを示した言葉だ。
「今この風景を見ているのは他の誰でもない、はるだ。ウチが抱き締めているのも、はるだよ。はるははるの為に生まれて来て、そして此処に居る。…そう考えるのは、間違ってる?」
「はるの、為…?」
「うん。それが、はるの生まれて来た意味だと思う。少なくともウチはそう思ってる」
他の誰の為でも無い。
全ては自分自身の為。
自分がそう願ったからこそ、生まれて来たのだと。
「すぱ…」
「ん」
ふるりと、小さな肩が震えた。
ドッと溢れた涙が子供の両目を一杯にし、次から次へと頬を伝って流れ落ちて行く。
スパナの袖までもを濡らす程の量に、はるはとうとう耐え切れずに泣き声を上げた。
それは初めて聞く、はるの本心からの叫びだった。
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