白く儚く
白い息が二人の間を遮る。
透明に近いそれは、そのまま壁となって立ち塞がっている様だ。
ポケットに両手を突っ込み、ハルを待つ自分。
けれど彼女は、壁の向こうで立ち尽くしたまま此方を見ている。
透明な壁。
けれど決して壊れない壁。
それは二人の、絶対に縮まらない距離だった。
この壁を壊すのは、とても簡単な事だ。
今この場で、目の前にいる彼女を抱きしめれば良い。
それだけで、たったそれだけで、この壁は消えて無くなるのだ。
衝動的に、走り寄りたい気持ちが身体を駆け巡る。
「…っ」
ギリと歯軋りをして、拳を硬く握り締めて耐えた。
そんな事をすれば、自分の存在はたちまち意味を失う事が解っていたから。
だから、出来ない。
絶対に。
気付けば辺りは闇に沈み始め、あちらこちらの街灯がともり始めていた。
それに合わせる様にして、天空から雪が舞い降りてくる。
一枚、二枚、三枚と、それらは次第に数を増して行き、空気もまたガラリと模様を変える。
静かに落ちてくる雪の花弁が、見えない壁に彩りを加えた。
更に絶望的な色彩へと。
オレは殺し屋を辞められない。
そしてハルは、殺し屋の傍にはいられない。
それは予感でもあり、決定付けられた未来でもあった。
彼女の性格では、殺し屋を続ける自分の傍にいる事は、到底耐えられないであろう。
それに何より、そんな自分の傍に、彼女を置いておきたくはなかった。
マフィアという世界の、ファミリーの一員に身をおいてはいても、殺し屋は元来孤独な家業だ。
ベルフェゴール自身、自ら望んでその位置に立っていさえする。
だから、彼女を連れて行く事は出来ない。
そして、自分の気持ちを明かす事も出来ない。
後はただ、彼女の気持ちにすら知らないフリを通すだけ。
言いたくても言い出せない、彼女のそんな気持ちを利用するだけ。
「…ハル…。オレを雪だるまにする気?」
立ち尽くす彼女に、恨めし気な声を向ける。
案の定、彼女は慌てて近付いて来た。
「はひ、すみません。つい見とれてしまいました」
寒さの為か、僅かに頬が上気して赤い。
素直に、可愛いと思えた。
咄嗟に伸ばしかけた腕を引っ込め、音を立てて笑って見せる。
「何、そんなにオレ格好良い?ま、オレ王子だし。当然っていや当然だけど」
「まぁ格好良いのは良いんですが…それより綺麗だなぁって」
「綺麗?」
「はい、ベルさん」
ハルは小さく微笑みながら、片手を伸ばしてきた。
「凄く綺麗ですよ」
何処か寂し気な笑顔のまま、オレの頭に積もっていた雪を優しく払い落として行く。
その手が微かに震えているのは、きっと寒さだけのせいではないのだろう。
ハル、オレのコト卑怯だって思う?
「ハール。このままだと、オレら本気で雪だるまになるぜ?」
未だ頭の上に置かれた手が、ピクリと動いた。
「雪だるまになれたら、ハル達お揃いですね。ずっと一緒に、雪の中にいられますね〜」
へらりと笑う彼女の目が、寂し気な色を浮かべている。
あぁ、もし此処で本当の気持ちをぶちまけられたら、自分達はきっと幸せになれるのだろうに。
「どした?」
試したい気持ち半分で、真剣な表情を作り身を乗り出す。
ハルが何と返すのか、ある程度予想は出来ていたけれど。
「何がですか?」
案の定、自分の気持ちを押し込めた言葉が、キャッチボール宜しく投げ渡された。
そうだ、これが彼女の甘さだ。
そして彼女の弱点でもある。
「何か悩んでんじゃね?」
それでも押してみると、目に見えてハルは怯んだ。
一瞬だけハルの目に横切った光を、自分は見逃さず捉える。
そして浮かべられる、ぎこちない笑み。
自分でも失敗したと、そう思っているのだろう。
「ちょっと…」
細く長い息を吐き、ハルは口を開いた。
「ちょっと?」
「お腹がすいて…いえかなり!もう限界です、はひーっ!!」
お腹を押さえ、ハルは軽く背を曲げて叫んだ。
僅かに俯いたせいで前髪に隠れてしまった瞳は、今どんな色を浮かべているのか。
顔を上げさせて確認したくても、望まない結末になる事が怖くてそれは出来ない。
自分でも怖がる事はあるのだと、その時初めて解った。
「それならこんなとこに突っ立ってないで、キリキリ歩けっての」
トン、とハルを軽く小突いて、視線を反対へと逸らす。
目に鮮やかなまでの色を映す、軒を連ねた街の光の方へと。
「すみませんー」
「飯何がいーの」
「うぅ、何でも良いです。思いっきり食べられて安ければそれで!」
「王子が安モン食える訳ないじゃん。ホラ、あそこの料理屋いくぜ」
示したのは、普通の店とは金額が一桁は高い場所。
「えぇ…っ、あそこは高級レストラン…!?ベルさん、無理ですって!ハルあんなとこ払えませんー!!」
先に立って歩き出すと、ハルは焦って小走りに後をついてきた。
笑いながらハルの意見は無視して、そのままその店を目指して行く。
後ろから聞こえて来る靴の音が、徐々に遅れがちになるのを認識しながら、天空へと顔を上げる。
ひっきりなしに落ちてくる雪に、自分達に降り注ぐ氷の結晶に、細く細く目を眇めて息を吐く。
「このまま埋もれられたら、オレもハルも楽になれるのに」
小さく呟いた言葉は、きっとハルには届いていない。
声量が小さいという理由だけではなく、ハルもまた同じ類の事を考えているだろうから。
ハル。
オマエを連れて行けたらって、オレはずっと思ってるよ。
でもそれは出来ない相談じゃん?
オレは殺し屋で、オマエは普通の女子中学生。
本来なら出会う筈もない、別々の世界で生きる人間なんだからさ。
それぞれの領分というものが、この世にはある。
一瞬だけ交わる事はあっても、永遠にそれが重なる事は有り得ない。
否、有り得てはならない。
だから、此処までだ。
此処から先は、一緒には進めない。
自分がこの世界から去ったその時が、二人の別れ道となる。
「ハルー、早くしねーと置いてくよ」
今や完全に止まってしまった足音に、振り返って声を掛ける。
「ま、待って下さいー!」
ハルは笑顔で駆け寄って来た。
それでも、今だけは…せめて日本にいる今の間だけは、一緒に歩いていよう。
手を繋ぐ事も出来ない関係だけれど、それを虚しいとはどうしても思えないぐらい、彼女の事を愛してい
るから。
だから、今だけ。
今だけでも、と。