それだけのこと
幸せになりたかった。
事の起源は、それが理由。
「俺じゃ無理だ。駄目なんだ。昔も今も、何も変わってない。少しばかり強くなったところで、それが何になるって言うんだ?ただ慢心が増しただけの事じゃないか。道を―――俺は、一体何処で道を間違えたんだろう」
両手で顔を覆って泣くその姿に、雲雀は深い深い溜息を吐く。
今更何を言っているのかと、そんな事は疾うの昔に解っていただろうとでも言いた気に。
実際は何も口にはしていない。
言葉にせずとも、後悔の真っ只中にいる彼には伝わるだろうから。
「貴方は…どうして、ハルを好きになったんですか」
手の隙間から漏れ聞こえた声に、雲雀の片眉がピクリと上がる。
「その質問に応えて、何かが変わるのかい?」
「…いえ。ただ、聞きたかっただけです。貴方なら、ハルを守れたんじゃないかと…そう、思っただけで」
「責任転嫁だね」
「………」
「彼女を選んだのは君で、君を望んだのは彼女だ。僕には何の関わりもない」
雲雀の声は、ただ淡々と紡がれて行く。
まるで分厚い繭の中にでも在るかの様に真意を曇らせ、意図すべき点を巧妙に隠したまま。
「でも……いえ、その通りです。悪いのは、俺だ。俺が、ハルを守れなかった。俺が傷つけてしまった。俺が、俺が、俺が……!」
彼の咽喉から溢れる単語は絶叫となり、雲雀の鼓膜を揺るがせる。
余りの騒音に、雲雀は不快そのものな表情で目を閉じた。
今更それを言ったところでどうにもなりはしない。
だと言うのに、この男は一体何時まで悔い続けるつもりなのか。
彼女が望んだのは、そんな無様な姿を晒す事ではないだろうに。
全く以って滑稽だ。
よりにもよってこの自分にそんな話を――慟哭をぶつけるのだから。
「くだらない」
一言で吐き捨てると、雲雀はその場で踵を返す。
地に両手を這わせ、嗚咽を垂れ流し続ける醜い姿を後目にして、彼は叩き付ける様な風と雨の中をただ進んだ。
「ヒバリ、さん」
掻き消される様な細い声に気付いたのは、我ながら驚くべき事だったと思う。
気配は感じられても、この騒音に満ちた景色の中では、多少の物音等聞こえる筈が無い。
そう、普通は。
「三浦…?こんな所に出ても平気なの」
「ツナさんが…いえ、ツナさんの姿が見当たらなかったので」
傘を両手で支え、危うげな足取りで歩いている彼女の肩を片手で掴んで引き止める。
以前にも増して痩せ細ったその感触に、雲雀は小さく息を吐いて頭を振った。
「見当たらないも何も、君には見えないでしょ。その状態では」
「ふふ。…手厳しいですね」
小さく笑う彼女の口元の上、綺麗に整った鼻梁の上半分より額まで。
それら全てを包帯で覆っているハルは、小首を傾げて雲雀の方を向いている。
しかし、今の彼女には自分の姿は見えてはいない。
これから先もずっと、視認する事は出来ないのだ。
その包帯の下に隠された眼窩には、在るべき筈の眼球が無いのだから。
何れは偽者のガラス球を入れる事になるだろうが、それで彼女の視力が戻る訳では無い。
今の技術であれば、以前までの視力と同等の機能を備えた眼球を作る事も可能だが、ハルはそれを望まなかった。
「沢田なら、この先に居るよ。でも、今は行かない方が良いだろうね」
「そうですか…」
雲雀の言葉に何かを感じ取ったのか、彼が肩から手を離しても、ハルはそれより先には進もうとはしない。
ただ前方のみを見つめ、傘を握り締めているだけだ。
その脳が作り出す光景に、一体どんな沢田綱吉という男が描かれているのだろうか。
聴覚と触覚を頼りに此処まで一人で歩いて来るだけの価値が、彼女の中の彼にはまだ残されているというのだろうか。
ふと脳裏に浮かんだ疑問が余りにも馬鹿馬鹿しく、雲雀はハルから視線を逸らして雨に濡れた己の右手に視線を落とした。
ハルの肩を掴んだ瞬間に込み上げて来た、言い様の無いあの感覚。
この雨の中で彼女の声を拾う事すら容易い程、自分は彼女に入れ込んでいるのだと、改めて気付かされる。
「ツナさんが自分を責める事は、解っていました」
ポツリと呟かれた言葉が、妙に物悲しく雲雀の耳に染み込む。
「解っていて、あの人の元に両目を残して来ました。…ハルは、酷い女です」
「義眼を単なるガラス玉にする理由も、沢田を引き止めておきたいから?」
「はい」
間髪入れずして返される応答に、可笑しさが込み上げて来る。
「漸く手に入れた愛情だったんです。ずっとずっと、長い間欲し続けて、やっと手に入った…だから、もう二度と手放したくはありません」
「沢田がそのせいで、これから先、一生苦しむ事になってもかい?」
「………」
今度の応答は、雨の音のみ。
沈黙せざるを得ない程、雲雀の質問は相当の痛手を彼女に与えたのだろう。
包帯の下に泣き顔が透けて見え、震える指先から傘を受け取ると、雲雀はハルの頭上へと赤いそれを翳した。
「幸せに、なりたいんです」
彼女の静かな叫びが、傘を通して伝わって来る。
誰もが望むその願いは、綱吉も、そして雲雀もまた確かに一度は考えた事だった。
両目を犠牲にしてまで、綱吉を引き止めたかったハル。
そんなハルの姿を目の当たりにして、自分では彼女を守れないと嘆く綱吉。
そして、彼等二人の想いを、否が応でも一番に理解してしまうこの自分。
何と言う茶番劇か。
三者共、永遠にその願いは叶わないと知りながらも、それでも己の歩む足は止められないでいる。
ただ、幸せになりたかった。
それだけだというのに。
それぞれの慟哭を隠す雨の音が、まるで笑ってでもいるかの様に、ただ天から降り続いていた。