それは不意に訪れて







炎天下。
アスファルトから透明な湯気が立ち上っている様子が、肉眼で嫌になるぐらいハッキリと見える。
ユラユラと熱い空気が揺れ動く中、ハルは両手にビニール袋を抱えて歩いていた。
「は、はひー…。死にそう、です……」
ダラダラと汗を流しながら、朦朧とした視線を前方へと向ける。
照りつけてくる太陽の下、見渡す限り灼熱の地獄の如き熱源が辺りを覆いつくしている。
草木も余りの暑さに、ぐんにゃりと萎れているぐらいだ。
ひっきりなしに皮膚から吹き出る汗を拭う間もなく、次から次へと新たな汗が滲み出てくる。
「なん、か…フラフラ」
帽子を被っていないのが祟ったらしく、ハルは熱射病を起こしかけていた。
ぐらぐらする視界に身体をフラつかせそれでも歩いていたが、数歩も行かない内にとうとう意識が吹っ飛んだ。
手からビニール袋が離れ落ち、ゆっくりと身体がアスファルトへ向かって傾いで行く。
「おい!」
突然人の声がしたかと思うと、道の曲がり角から黒服の団体が現れる。
その中から唯一、黒色ではない服装をした青年が飛び出し、ハルの元へと駆け寄った。
焼け付いた地にその身体が倒れ込む前に、一本の腕が力強く掴み支える。
「…ったく。こんな日に帽子も被らねーなんて、自殺行為だぞ…」
苦笑めいた言葉を発した人物は、片腕で少女を支えビニール袋を拾い上げる。
「ボス。私がやりますよ」
部下の一人が手を差し伸べるのにはビニール袋だけ渡し、腕の中の少女の身体は自分で横抱きにする。
「こっちはオレが運ぶから、そっち頼むな。…あー…後、ロマーリオに三浦家に連絡入れる様に言っといてくれ。多分、すぐには動けねーだろうしな。起きたら夜になってる可能性もあるから、念の為」
「そんな事言って、ボス。手なんか出す気じゃないでしょうね」
からかい混じりに部下に言われ、ハルを抱えた青年は「出すか」と笑って返した。
「しっかし、暑ぃな…」
青年は天を見上げると、その余りの眩しさに目を細める。
真夏日とはいえ、日に日に温度が上昇している気がする。
辺りには自分達以外に人影はなく、皆屋内に閉じ篭っている様だ。
「まぁ、それも当たり前だな」
こんな天気の日に、道路の上を歩き続ける物好きも早々居ないだろう。
小さく呟くと、目を閉じてぐったりとしている少女を見下ろす。
自分の作る影で多少なりとも楽にはなったらしいが、それでもこの気温は辛そうだ。
ハルをしっかりと抱え持ち、足早に歩き出す。
背後に控えていた部下もそれに続く。
彼等は普段から鍛えているおかげで、この気温でも顔色一つ変えずに平然と歩いている。
それでも暑い事は暑いだろう。
青年は少女の為にも部下の為にも、日本に設置している臨時のアジトへと早目に戻る事にした。




ひんやりとした空気の中で、ハルは目を覚ました。
寝ぼけ眼に映るのは、真新しい白いシーツに、上質な羽毛入り掛け布団。
こんな上等なベッドは、ハルの部屋にはない。
「はひ…」
「大丈夫か?」
上半身を起こせば、不意に傍から声が掛かった。
「あれ…。ディーノ、さん…?」
ふらふらする頭を押え、見知った顔に軽く目を見開く。
「ホラ。喉渇いてるだろ」
ディーノはサイドテーブルの上に置いてあった水差しを持ち上げ、そのままグラスへとたっぷり注ぐ。
「あ、有難う御座います」
差し出されたグラスを受け取ると、自然と喉が鳴った。
それだけ喉が渇いていたという事だろう。
噎せない様に注意しつつ、ゆっくりと水を口に含む。
喉を潤す清涼感に、ハルはホッと息を吐いた。
何とはなしに窓へと視線を向けると、外は既に暗くなっている。
「!」
意識がなくなってからの時間の経過を思い知り、思わず立ち上がろうとするも、身体が言う事を聞かず再びベッドに沈むハメに陥る。
「お、おいおい。熱射病起こしてぶっ倒れたんだ、あんま無茶するなよ」
「はひー…」
シーツの上に転がったグラスを取り上げサイドテーブルへと戻すと、ディーノは苦笑してハルの頭を優しく撫でた。
「でも、今頃お父さんが心配して…」
「あー、家の方には連絡しといた。…ロマーリオのヤツが、言い方間違えてちょっと騒動になりかけたけどな」
「間違えた?」
「あいつ、よりにもよって『お宅のお嬢さんを預かってます』って言い回しで伝えちまったらしいんだ。誘拐と間違われたと嘆いてたぞ」
「それは、確かに間違えるかもしれませんね」
想像して吹き出したハルに、ディーノもまた笑って頷く。
「もうちょっと日本語の勉強させとかねーとだな。ま、そういう訳で家の心配はいらないぜ。明日には家に送っていくから、安静にしときな」
「はひ、すみません。何から何まで…」
ハルは言われた通り大人しくベッドに身を横たえ、ふかふかのシーツに包まれた。
心地良い感触に目を閉じ、そして思い出す。
「あ」
「ん?どうした?」
部屋を出て行こうとしていたディーノは、しかし突然声を上げたハルを振り返る。
「あの、ディーノさん…。そのですね……ハルが持ってたビニール袋、なんですけど」
「あぁ、あれな。ちゃんと冷蔵庫に入れて保管してるぜ。ケーキ12個、全部」
「はひ!…ちちち、違いますよ?あれ全部一人で食べる訳じゃないですからね!?京子ちゃんやイーピンちゃん達と食べる用に、あれだけ買っただけですから!」
慌てて口早に言い訳を始めるハルに、笑いを堪えて「解ってる、解ってる」と返しておく。
「用があったらそこの内線で呼んでくれ。もし風呂とか入りてーんだったら、それも用意させておく
からさ。それじゃ、オヤスミ」
片手を挙げて挨拶をすると、今度こそ部屋を出る。
廊下に出るなり控えていた部下と鉢合わせして、相手の表情に肩を竦めて見せる。
「俺、そんな信用ねーのか…?」
「ボスが女の子を屋敷にあげるなんて滅多にないんで、ロマーリオに一応見張っておけと言われてね。まぁ、そんな疑ってるわけじゃないですよ」
含み笑いを宿した部下に、ディーノは口を曲げて溜息を吐く。
「そう思うなら、聞き耳立てる必要ねーだろ。…ったく、ロマーリオの奴」
ガリガリと頭を掻きつつ、廊下の奥にある部屋へと視線を走らせる。
執務室にいるであろう部下の顔を思い浮かべ、思わず苦笑する。
「心配しなくても、ハルはツナの仲間だ。手なんか出したりしねーよ。それに恭弥の想い人でもあるしな…。下手に突っつこうもんなら、まずアイツに殺される」
そう言い置くと部下をその場に残し、ロマーリオの元へと足を向ける。
煌々と明かりの灯された廊下を進んでいると、バイクの轟音が外から聞こえて来た。
「ボス」
執務室からロマーリオが顔を出し、窓の外を見る様に促して来る。
辺りは暗闇に覆われてはいたが、あちらこちらに点在する外灯のおかげで、バイクから降り立った人物がハッキリと見える。
「あちゃー…。お前、あいつにも連絡したのか」
「いや、彼の連絡先は知らないから、教えようにも無理だ。何処かから聞きつけてきたんじゃねーのか?」
「おい、アイツを通す様に見張りに言っとけ。今のアイツに下手に近付こうもんなら、殺されかねん」
「それならもう伝えてある。彼の強さはボスとの戦いで見てきてるからな」
「流石、行動が早いな」
ディーノが踵を返し玄関口へと向かおうとした矢先、学ランを羽織ったバイクの持ち主は既に目の前にいた。
「恭弥…。早いな」
余りの足の速さに驚く間もなく、目の前の人物――雲雀恭弥は口を開く。
「三浦は?」
「あぁ、彼女ならあっちの部屋だ。もしかしたらもう寝てるかもー……って、オイ」
居場所を聞くや否やさっさと背を向ける雲雀に、ディーノは深い溜息を漏らした。
挨拶の一言もない、教え子のそんな無愛想な態度には慣れているつもりだったが、時折やるせなくなる。
「良かったな、ボス。何事もなくて」
「あー…まぁな。ここでバトル始められんのも困るけど、それにしたって急ぎ過ぎだぞアイツ」
既に姿の見えなくなっている雲雀の顔を思い返し、ディーノは迷った末に後を追いかける事にした。
「ボス、邪魔すっと危ねぇぞ」
「様子見てくるだけだっての」
背後に掛かるロマーリオの声につんのめりそうになりながらも、ハルの居るであろう部屋へと向かう。
扉の前に控えていたはずの部下の姿は無く、雲雀によって追い払われたのだと簡単に推測出来た。
「そんなに惚れてるのか…」
先程見た、戦闘にしか興味がないとばかり思っていた雲雀の、何処か切羽詰った光を宿した目を思い出し、ディーノは軽く笑いを漏らす。
「良い傾向ではあるんだけどな、今のハルに妙な事してなきゃいーんだが…」
僅かに開いていた扉の影から室内をそっと伺い見る。
其処には壁に背を預けたままの雲雀と、身を起こして楽しそうに笑っているハルの姿があった。
心配する様な光景は何も無く、寧ろ穏やかな空間が出来上がっている。
その事に驚くと同時に、自然と視線がハルへと吸い寄せられた。

普段仲間に向ける物とは、微妙に質の異なる笑顔。

それは雲雀がハルに抱いているのと、全く同じ感情から出るものだと直ぐに解った。
恋をしている者特有の表情。
今までに幾つも見てきたし、自分もまた同じ様な顔をした事がある。
この年齢になると、見慣れてしまっていると言っても過言ではない。
それなのにハルのその表情を見た途端、妙に高鳴った動悸に気付き、慌てて扉から離れた。
「…何だ?」
頭にくっきりと残る、ハルの笑顔に眉を寄せる。
「待て待て。しっかりしろ、自分」
心臓を落ち着かせようと呼吸を繰り返すが余り効果は無く、よろける様にして部屋から遠ざかった。
自室へと戻る途中、窓に映る自分の顔を見てギョッとする。
雲雀やハルと同じ表情をした人物が、其処にくっきりと映っていた。
「うわ。最悪だ…」
思わず顔を覆ってしまうぐらい、情け無い顔がガラスに反映している。
これは非常にまずかった。
相手があの雲雀の想い人だと言う事が、更にまずかった。
今までハルをそんな目で見た事はなかったというのに…。
突然芽生えた感情に、ディーノは困惑した。
「まずいよなー。どうすっかなー」
わざと軽口を叩いてみるも余り効果はなく、寧ろ自分の恋情を改めて自覚させてしまう結果となってしまうだけだった。







戻る