そして彼女は恐怖する






怖いと思った。
にこやかな笑顔は何を考えているのか全く解らない。
まさに腹黒いといった表現がピッタリな男だ。
「どうして逃げるのかな?」
近付いて来るその足取りは、決して速くは無い、寧ろ至ってのんびりとした歩調だ。
どう考えても走れば容易く逃げ出せる距離だし、走力ならばハルにも自信はある。
何せリボーン仕込みの脚力だ、それ相応に蹴りの威力だって期待出来るだろう。
いざとなったら急所を蹴り上げてでも、この場を逃げ出さねばならない。
そう、何としてでも。
「考え事?」
顔を上げた瞬間、男の姿は視界から消えていた。
そして背後から抱き竦められる感覚。
「―――!」
悪寒が頭の天辺から足の爪先まで一気に駆け下りて行く。
「は、なして…下さいっ」
ゾクゾクと、背筋に、皮膚に、骨に、痺れる様な電流が走る。
それが恐怖ばかりのせいでは無いと、気付いてしまったらもうお終いだ。
この手から逃れる術は、きっと無くなってしまう。
「やだ。…って言ったら?」
「後悔しますよ…」
「へぇ、それ面白いね。是非させてよ」
吐息が首筋に掛かる。
その唇が項を辿る前に、ハルの肘鉄が男の鳩尾を深く抉る様に突き込まれる。
が、それが適う事は無く、右の肘は彼の片手の平で簡単に受け止められてしまっていた。
「……っ」
焦る前に、反射的に動いた足の踵が、続いて背後を蹴り上げる。
「良い攻撃してるね」
クスリと耳元で囁かれる声とは裏腹に、身体を戒めていた腕の感触は何時の間にか無くなっていた。
完全に空を切る足が、目標を見失って蹈鞴を踏む。
舌打ちをしそうになる自分を堪え、ハルは警戒しながら背後を振り返る。
「惜しいな。出来れば、壊さずに連れて行きたい所なんだけど」
男は既に僅かばかり離れた位置へと移動しており、余裕の表情で此方を見ている。
翳された指先に嵌った指輪が、淡い光を滲ませていた。
その色合いに、ハルの目が見開かれる。
「その指輪…。まさか貴方、ミルフィオーレの…!」
「うん、正解。名前は白蘭って言うんだ。覚えておいて?」
ハルが息を呑み、薄い笑みを湛えた男が動くその寸前、ハルの背後から複数の足音が聞こえて来た。
慌しいその足取りに、男は軽く肩を竦めてみせる。
「残念。リミット来ちゃったみたいだね。此処で全員伸して君を浚うのも悪くないけど、時間に煩い正チャンに怒られそうだから、止めておくかな」
何処までが冗談なのか、全く判別がつかない。
「また今度ね。ハル」
そんな言葉を残して、白蘭と名乗った彼はその場から完全に姿を消した。


「ハル、大丈夫か?」
緊張感が抜けたせいで、その場に座り込んでしまっていたハルの腕を、山本が優しく引っ張り起こす。
「クソ、遅かったか…!」
獄寺は今はもう無い姿を捜し、視線をあちら此方へと飛ばしている。
「無事で良かった…」
そして綱吉は、本当に安堵した表情で息を吐いていた。
「………ツナ、さん」
ハルは山本に助けられて立ち上がりながらも、綱吉の顔から視線を外さない。
何処かぼんやりとした表情で、ただ綱吉だけを見ていた。
「おい、ハル。あの野郎、何処に行った!?」
獄寺が語調荒く話しかけても、ハルの返事は無い。
そればかりか、ハルは山本の手から離れると、両手で綱吉の肩を掴んでいた。
「ツナさん、駄目です…」
「へ?」
弱々しい口調ながらも、その目には必死な光を携えるハルに、綱吉が狼狽する。
「駄目です。あの人とは、絶対に駄目です!」
「ちょ、ハル…」
「駄目です…。戦ったら………ツナさんは…」

殺されてしまう。

その一言だけは口に出来ず、ハルは再び地面に崩れ落ちた。
今更ながらにガクガクと、まるで痙攣の様な震えが身体を襲う。
白蘭という男の存在感が、その強さが、目の前から消えて初めて身に染みて解る。
あの男の強さは、半端な物では有り得ない。
上手く隠してはいたが、とんでも無い力をその内に潜めている。
恐らく、今の綱吉が彼に戦いを挑んでも、勝ち目は無いだろう。
「駄目、です…っ」
悲鳴にも似た叫びを発し、ハルはただ震える事しか出来なかった。
綱吉を永遠に失ってしまうかもしれない。
そんな恐怖を、この時ハルは初めて感じていた。







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