全てが傲慢だとしても





どんなに手を伸ばしても、届かない距離というものが在る。
住む世界が違えば、話を交わす事も、触れ合う事すらも決して叶わない。
ならば、どうして。

「…どうして、出逢ってしまったのでしょうね…」

ひっそりと微笑む青年が一人。
古めかしい長椅子へと腰を掛けた彼の、その横に立つのは実態の無い幻の存在。
もう十年も前から愛し続けている、一人の女性の姿。
彼の独り言にも似た問い掛けに応えるかの様に、彼女の唇は言葉の形を綴って行く。
音としては伝わって来ない返答が、自分の希望通りの文字である事を彼は理解していた。
何故ならばこの幻は彼女自身ではなく、この自分が勝手に作り出した幻影に過ぎない物だから。
一方的な想いでしかない事は、遠の昔に知っている。
それでも諦められなかったのは、この自分の心が弱いせいなのだろう。
「クフフ…。僕はこれでも、悪足掻きをする方なんですよ」
傍の幻に手を翳し、自分だけを見詰めているその姿を掻き消す。
会えたのは一度きり。
視線を交えたのも一度きり。
時間にすれば、それこそ数秒にも満たないだろう。
けれどその瞬間、自分は確かに恋に落ちていた。
元気の良い声と笑顔が、今でもハッキリと記憶に刻み付けられている。

「ハルさん。僕を愚かだと思いますか?」

この恋は、決して成就しない。
否、されてはならない。
もしも叶ってしまえば、彼女は自然と此方の世界へ引っ張り込まれてしまうだろうから。
元々近い位置には居たけれど、それでもマフィアの様な血生臭い場所は、彼女には似合わない。
だからこそ一方通行のまま―――このままで終わらせなければ。
そう解ってはいても、心の奥底に燻ったままの感情が、どうやっても忘れさせてくれなかった。
だから、模索し続ける。
彼女と自分が幸せになれる、何処にも有り得無い、そんな未来を。
最後の最後まで足掻き続けるだろう滑稽な自分に、青年の口から小さく笑いが漏れた。
辛い、苦しい、悲しい、寂しい…そんな感情は既に失くして久しい。
それらは全て、マフィアという存在を許せなくなったあの日に、一片も残さず捨ててしまっている。
だからこそ、今の自分が持っているこの気持ちが何なのか、青年には解らなかった。
狂おしいまでに恋焦がれる、そんな感情を表すものを、一体どう呼べば良いのだろう。


「さて、そろそろ行きましょうか」
青年が長椅子から立ち上がると、それまで背中へ垂れる程長かった髪が、ゆっくりと短くなって行く。
それに伴い、顔も体型も、今まで見えていた姿がまるで嘘の様に、全くの別人へと変わってしまった。
服装すらもすっかり模様替えした青年は、愛嬌のある顔で書類を小脇に抱えて扉を開け放つ。
暗いままだった室内とは裏腹に、眩しいまでの光で埋め尽くされている廊下へと出ると、組織の一員である証の一つ、白い制服に身を包んだ人々が視界の端に入った。
「おい、レオ。白蘭様がお呼びだったぞ」
背後から掛けられた声に振り返り、青年は人好きのする笑顔を浮かべて頭を下げる。
「すみません、直ぐ向かいます。白蘭様は、何時ものお部屋に?」
「多分な。急げよ」
「はい」
事務的な遣り取りを終えると、踵を返し通い慣れた通路を選んで進む。
その表情に、先程までの青年の面影は微塵も見当たらない。
偽りの姿を身に纏ったまま、青年は己の住まう世界へと舞い戻って行く。
脳裏に浮かぶ姿を、心の片隅に留めたまま。







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