スパナのおはなし
父親が死んだのは10年も前の事だ。
当時の自分はまだ子供で、身寄りも他に無かった為、一人で生きていくしかなかった。
孤児院に入るという手もあったが、それをしなかったのは、単に規則に縛られるのが嫌だったからだ。
まるで修行僧の様な生活を送るよりはと選んだのは、謂わば犯罪者への道。
当時はろくに世情も解らず、せっかく稼いだ金を騙され、奪われ、巻き上げられる事もしばしばあった。
ジッリョネロファミリーに拾われるまで、結構な苦労をしてきたと我ながらに思う。
ハルにせがまれて話し始めたものの、昔話なんてしたのは、よくよく考えればこれが初めてかもしれない。
事務的な用事以外に余り人と話しをしないので、長い間口を開いたのは随分と久しぶりだった。
軽く疲れを感じて息を吐くと、パタリと床に雫が落ちるのが目に入る。
「…?」
視線を上げると、顔をクシャクシャにした少女の姿が見えた。
「す、すみませ…っ」
慌てて目元を擦りながら涙を止めようとしているが、後から後から溢れ出て来るそれは、どうにも納まりそうにない。
「何で泣く?」
「わ、からな……ぅ、ひっく」
「アンタには関係無い事なんだから、泣く必要なんか無い」
「ごめな、さ…ハルが、泣くのは…っ、ひ、…失礼だと、思うんで、す……でも、止まらな、くてっ………」
「いや、そういう意味で言ったんじゃないけど」
顔を覆った両手の隙間からボロボロと零れる涙に、半ば感心すらしてしまう。
何故こうも他人の為に泣けるのか、本気で解らない。
自分には理解出来ないだけに、余計に不思議だった。
情感豊かな者は、他人の痛みをまるで我が事の様に感じてしまうものだと、誰かから聞いた事がある。
彼女もそんな人間の内の一人なのだろうか。
このままだと目が溶けてしまうのではないかと、思わず心配してしまうくらい泣き続ける彼女に、まるで自分が苛めてでもいるかの様な錯覚を受けてしまう。
普段は良く笑う少女なだけに、こんな現場を誰かに見られでもしたら、十中八九誤解されるに違いない。
「別に悲しまなくて良いんだ。親父が死んでも、ウチは泣いた事もないんだし」
かなり悩んだものの、結局はハルの頭を軽く撫でやる事にした。
子供をあやす要領だが、自分からすれば彼女も十分子供の域に入るので、問題は無いだろう。
尤も、後に正一にこの事を話せば、溜息を吐かれてしまうのだが。
「スパナさ…悲しくなかったん、ですか…?」
涙の溜まった瞳が此方を向く。
瞬きをする毎に、はらはらと涙の粒が零れる様は、花弁が茎から落ちて行く動作に似ていた。
「悲しかったよ。あれでも一応実父だし。ただ、どうしてか泣けなかったんだ。あぁ、ショックが大きかったせいもあるかもしれないな」
淡々と綴られたスパナの言葉に、ハルは一層肩を震わせた。
「え…ちょ、何でまた泣くの。ウチ、変な事言った?」
「いえ…っ。…良い、んです。このまま、でっ。う、っ……く、…ひぅ、……っ」
慌てて頭から手を離し、オロオロと少女を見下ろす。
完全に俯いているせいで、彼女の表情は全く見えない。
困った様に後頭部を見下ろしていると、泣き声に混じって囁き声が聞こえた。
「スパナさんの分…、まで、…代わり、…ハルが泣くからっ…良いん、で…す」
「………」
それは単なる言い訳だろうと、スパナは軽く呆れた。
幾ら他人の痛みを感じてしまうとはいえ、当人でない限り、その痛みは決して解り様がない。
代わりに泣くというその行為は、単なる自己満足の自己憐憫だ。
他人の不幸を理由付けに使っているだけに過ぎない。
本来なら怒っても当然な相手に、しかしそんな気は起きなかった。
それどころか、酷く動揺している自分に気付く。
呆れると同時に、心の奥底でざわめく何かが徐々に浮上して来ていた。
じんわりと心が温められる、とてつもなく奇妙な感覚に、スパナは軽く息を呑んだ。
急に目の前の少女が愛しく感じられ、思わずその肩を抱きそうになった手を固く握り締める。
「ウチは……」
ボソリと吐き出した言葉が続かない。
ハルも泣き止む様子が無い。
「………」
今度は途方に暮れた表情で、スパナは少女に倣い俯いた。
今まで自分の為に泣いてくれた人等、一人もいなかった。
身の上話などした事がないのだから当然という、その事実を差し引いても、ハルの零す涙は酷く魅力的に映る。
「…有難う」
結局、そう返すのが今のスパナの精一杯だった。