食べるもの
人通りの余り無い公園内。
偶々目撃したその現場は、何だかとても腹が立つ光景でしか無かった。
雲雀へ差し出された箱とそれを持つ手が、少し離れたこの位置からでも震えている事が解る。
綺麗にラッピングの施されたあの箱の中身は、言わずもがな今日のイベントアイテムなのだろう。
一生懸命作ったであろう事は、少女の様子からしても容易に想像出来た。
「何見てるの」
少女が泣きながら去って行く後姿が、まるで自分の未来を見ているかの様で、それが余計に怒りへ拍車を掛けたのかもしれない。
ハルは雲雀の真正面に立ち、冷ややかな視線を睨み返す事で受けて立った。
「あんな言い方はないんじゃないですか?」
「覗き見していた君に言われる筋合いはないよ。余計なお世話だ」
即座に切り返される至極尤もな言い分に、しかし今のハルは負けてはいない。
「そんなつもりは無かったんですが、結果的に覗き見になってしまった事は謝ります。でも、相手は雲雀さんよりも年下の子なんですよ?もう少し言い方を変えても罰は当たらないと思います」
「言い方を変えたところで、結果に変わりはない」
「それでも…っ!」
「それとも君は、僕があの子と付き合わないと満足しない。そう言いたいのかい?」
「違います、そんな事は一言も言ってません!」
淡々とした口調に反して、雲雀の目元は更に険しさを増している。
機嫌の悪化が目に見えて解る相手に、ハルの背中に冷や汗が滲んだ。
「言ってるでしょ。その気も無いのに優しくして、それで相手を余計に付け上がらせろって」
「付け上がらせるって…ヒバリさん、それはあんまりです!」
「…煩いよ、君」
顔をハッキリと顰める様に、ハルは思わず手にしていた小さな箱を雲雀目掛けて投げ付けていた。
「ヒバリさんなんてもう知りません!」
自分でもヒステリックだと思う叫びを残し、ハルは雲雀に背を向けて猛然と先程の少女が去った方角へと走り出した。
一人その場に残された雲雀は深い溜息を吐き、地面に転がっている箱を見下ろして手を伸ばす。
「全く…」
小さな呟きは自分以外の誰に聞かれる事も無く、雲雀は拾い上げた小箱に視線を落とした。
淡いベージュ色で統一された、シンプルな包装紙に白いリボンが掛かっている。
ハルが自分で飾ったのであろうそれに、雲雀の口から再び溜息が漏れ出た。
「あの…」
ハルの呼び掛けに、土手に腰を下ろしていた少女は驚いた様に顔を上げた。
その目元が赤く染まっている事に、どうしてかハルの胸が微かに痛む。
彼女を泣かせたのは自分ではないのに、酷く罪悪感が湧き上がって来る。
「はい、何でしょう?」
ハルの視線に気付いたのだろう、慌てて目元を擦る仕草に、少女の気遣いが自然と伝わる。
気遣いが出来ていないのは自分の方だ。
声を掛けた事が今更ながらに悔やまれる。
それでも此処で口を閉じてしまえば、何の為に話し掛けたのか解らない。
「えっと、ヒバリさん…酷いです、よね。あんな言い方、あんまりです」
「あ…見てらっしゃったんですか?」
「すみません。その、偶然見掛けてしまって…」
「いえ、良いんです。あんな場所でしたし、誰が通ってもおかしくはありませんでしたから」
にこりと弱々しく笑む姿が、遠目で見た時よりも若く見える事に驚いた。
年齢からすれば、まだ10代後半ではないだろうか。
せいぜい2〜3歳年下だろう程度にしか思っていなかっただけに、ハルの罪悪感は更に増す。
「それに雲雀さんの対応も、それ程酷くはなかったんですよ。言い方は冷たく聞こえたかもしれませんけど、あれは彼なりの優しさなんだと思います。自分に都合の良い解釈かもしれませんけど」
「でも、泣いて…」
「涙腺が弱いんです、私。だからつい…。でもこれ、悲しいだけの涙じゃないんですよ」
川を渡る風が、少女の前髪を柔らかく揺らせて行く。
先程まで弱いと思っていた彼女の瞳は、話す毎に次第に精彩を取り戻すのが解った。
否、正確には精彩を取り戻しているのではなく、ハルの目に掛かった膜が晴れているだけなのだろう。
恐らく彼女は元からこういう目をしていたのだ。
精神的にとても強く、そして人を見る能力を持ち合わせた稀有な目を。
「好きになったのが彼で良かったなぁって、そんな嬉し泣きでもあるんです」
主観が入れば物事は幾らでも変わって見えてしまうのだと、ハルはこの時少女より教えられた。
彼女を可哀想だと思う目線で見ていた自分に気付かされ、そっと視線を少女から逸らして川へと向ける。
まだまだ水の表面は冷たい光を放っているが、風の色はとても優しく心持ち温かく感じられた。
それは単なる気温の問題では無く、きっと今傍にいるこの少女のおかげだ。
きっと雲雀に相応しいのは、彼女の様な人間だろう。
少なくとも自分よりは、この少女の方がずっと良い。
もしも雲雀が彼女を恋人に選んだとしたら、その時は酷く悲しい想いで一杯になるかもしれないが、心の底からの祝福を送れるに違い無い。
「もしかして、貴方は雲雀さんの恋人ですか?」
そんな事を考えていた矢先、今度は少女から質問を掛けてきた。
だからこそハルは驚き、一瞬だけとは言え間抜けな表情を晒してしまう。
「はひ?あ、いえそんなまさか!ハルは……その、貴方と一緒なんです」
「一緒?」
「はい。ハルも、あの人に好意を寄せている一人なんです。さっき思わずチョコレート投げ付けて来ちゃったんですけど…後でちゃんと謝りにいかないと」
苦笑して視線を少女へ戻すと、不思議そうな視線とぶつかった。
「?」
無言で見つめ返すと、少女の眼差しが不意に色を変えてふわりと笑んだ。
「雲雀さんが言ってたんです。『悪いけど、君にもそのチョコにも興味が無い』って。あの時は言葉通りに受け止めていたんですが、今ちょっとだけ彼の気持ちが解りました」
「えっと、それは…?すみません、良く解らなくて」
「君にっていう所がキーポイントだったんだなって事です。ふふ、ちょっと嬉しい。あながち私の解釈も間違ってはいないって事が解りました」
少女はハルに微笑みながら立ち上がると、臀部や裾に付いた砂を軽く払い落とした。
そのままハルへ近付き、静かに一礼して顔を上げる。
「来て下さって有難う御座いました。これで雲雀さんを諦められます。素敵な初恋を有難う御座いましたって、彼に伝えて下さい」
「あ、でも…」
「貴方なら私、心から応援出来ます。貴方で本当に良かった。どうか、雲雀さんを幸せにしてあげて下さいね」
少女はハルの言葉をさり気無く包み込み、何も言えない内に軽い会釈をして去ってしまった。
そういえば名前も聞いていなかったと、姿が完全に見えなくなってからふと気付く。
「ヒバリさんを幸せになんて、ハルには出来ませんよ…」
少女には解ったという彼の言葉すら、全く意味が掴めないというのに。
額面通り以外の解釈を、どうしても自分には見出せない。
そんな人間が、雲雀を幸せに出来るのだろうか。
尤もそれ以前に、雲雀がハルを好きになってくれなければ、幾ら此処で自分が足掻いてもどうしようも無い事ではあるのだが。
「寧ろそれは、ハルの方が言いたいぐらいです」
俯くと、視界の端に川面の煌きが目に反射して瞬いた。
少女の雰囲気が、今でも眩しい位に心に焼き付いている。
彼女ですら雲雀は認めなかったのに、この自分が適う筈も無い。
今から心に重く圧し掛かる失恋という二文字に、ハルは軽く首を振って顔を上げた。
せっかく少女に応援して貰ったのだ。
今から此処でグズグズ悩んでいても仕方が無い。
当たって砕け散る事は確実だが、それよりもまずは先の件を謝罪しなくては。
完全に頭に血が上っていた自分の行動の、何と身勝手な事か。
雲雀には雲雀なりの考えがあってやった事なのだ。
あの少女は彼なりの優しさがあったと言ってはいたが、例え思慮の欠片も無い応対を彼がしたからと言って、それに異議を唱える権利はハルには無い。
それがあるのは、実際に応対されたあの少女だけだ。
「うぅ、ハルは馬鹿です…」
後悔が後から後から波の様に押し寄せて、ハルは再び俯きそうになる。
それを何とか堪え、雲雀と口論した場所へと足を向けた。
雲雀は先程と寸分変わらぬ場所に立っていた。
「………ヒバリさん?」
その手にある封の切られた箱を見て、ハルは恐る恐る雲雀に話し掛ける。
無言で視線が向けられると、どうしても先の言い争いを思い出して、言い出し難くなってしまう。
だからまずは、純粋に疑問に思った事から切り出す事にした。
「まさかそれ、食べちゃったんですか?」
「見ての通りだよ」
当然とばかりにアッサリと返された言葉に、怒りの気配は無い。
「どうして…」
「お腹が空いてたからだけど」
「そっ…それだけですか」
「他に何か理由が要るのかい?」
既に空になってしまった箱の中身に、ハルは気負いを殺がれてがっくりと項垂れる。
「いえ、別に良いです」
チラリと見遣った雲雀の手の中にある自分の箱に、包装する前は添えていたメッセージカードが見当たらない。
まさか包装紙と共に捨てられてしまったのだろうか。
慌てて辺りに視線を向けるも、園内にはゴミ箱は無く、雲雀の付近にゴミらしき物も見当たらない。
然程強くはないが微かに風は吹いているので、それで何処ぞに飛ばされてしまったのかもしれない。
一応の告白文ではあるカードの中身を他人に読まれでもしたら、恥ずかしいどころの話では済まないだろう。
何せカードには、名前もしっかりと記載してあるのだから。
雲雀自身にカードの行く末を聞く訳にも行かず、ハルは目の前に立つ人物の存在も忘れて、忙しなく視線をあちらこちらへと向けた。
「何キョロキョロしてるの」
「はひ。ちょっと探し物を…」
「これの事?」
地面の上を彷徨っていた視線が、雲雀の言葉にピタリと止まる。
目線を上げると、何処か意地悪めいた表情の雲雀が真っ先に目についた。
次いで、何時の間にか彼の手の平の上に乗せられた、厚紙の白いカードに視線が吸い寄せられる。
「はひ、それ…っ!」
反射的に駆け寄り、相手から奪い取ろうと手を伸ばすが、簡単にかわされてしまう。
「返して下さい!!」
「良いよ。君がさっきの件を謝罪するならね」
態とハルの手には届かない位置にカードを掲げ、雲雀は静かに言葉を紡ぐ。
「う…」
「しないなら、返さない」
「すみませんでした…」
更に言い重ねる相手に、ハルは大人しく本来の目的を果たす事にした。
が、どうやらそれだけでは不満だったらしい。
「それは何についての謝罪だい?」
雲雀は未だにカードを下ろす気配が無く、ハルを見下ろしたままだ。
「箱をぶつけてしまって、すみませんでした」
今度は頭を下げて丁寧に謝るが、雲雀の手は一向に下がらない。
これ以上どう謝れば良いのか見当もつかず、ハルは不安そうに雲雀を見上げる。
「ひ」
瞬間、出掛けた悲鳴を何とか押し殺す。
思いも掛けず間近にあった雲雀の顔が、不機嫌そうに歪んだ。
「違う」
「はひ?」
「謝罪する対象が違うよ、三浦」
下手に動けばこの青年に呑み込まれてしまうかもしれない。
そんな蛇に睨まれた蛙の心境で、ハルはただじっと雲雀の顔を凝視する。
暫くの間そうして見つめ合っていたが、先に雲雀の方が視線を外して身を退けた。
「解らないなら、これは僕の物だね」
手にしたカードを黒スーツの中へと納め、雲雀は小箱を手にハルの傍を通り過ぎて行く。
「え、ちょ…待って下さい!ヒバリさん!!」
「何」
一応は立ち止まり振り返ってはいるが、今直ぐにでもまた背を向けられそうな雰囲気だ。
今度はきっと、呼んでも無視されてしまうだろう。
少なくとも、雲雀の求める謝罪の対象が解るまでは。
「ヒバリさんは、ハルが箱をぶつけた事を怒っていた訳じゃないんですか?」
「そんなどうでも良い事を、一々気にする必要も無いからね」
「でも、それじゃ一体…」
どうにも答えが見つからずにまごついていると、雲雀の呆れた様な視線がハルの顔面をダイレクトに突き刺す。
「君なら好きな人間に、他の人間の好意を受け入れろ、優しくしろって言われて嬉しいのかい?」
「は……」
「意外に鈍感だね、三浦ハル」
雲雀の台詞に頭がついていけないのか、ポカンとしているハルを残して、今度こそ雲雀は公園を出て行く。
ハルの手製小箱を片手にしたまま、捨てる事も無く。
「………」
雲雀の居なくなった空間を見つめたまま、しかしハルは動けなかった。
「好きな人間…」
彼の残した言葉を繰り返して、其処で初めて脳がゆっくりと回転を始める。
「好きな、人間…?好き………はひ!?」
食されたチョコレートと、捨てられなかった告白文の書かれたメッセージカード。
それだけでも立派な判断材料となるのに、今まで気付けなかったのは、やはりあの少女の存在があったからだろうか。
「ヒバリさん」
彼女が駄目だったのに、自分が上手く行くなんて考えられなかったせいだろうか。
「ヒバリさん!」
主観が入れば、事実も歪曲される可能性が大きい。
少女に気付かされたその事が、再び此処で立証されていた。
「ヒバリさん、待って下さいー!!」
既に姿の見えない相手を追い掛け、ハルは全力で走り出した。
漸く解った雲雀の求める『謝罪』をする為、少女から受けたメッセージを伝える為、そしてカードに書いた告白を自分の口から直接する為に。