囚われぬ






逃げる。
逃げる。
逃げる。

この人は危険だ。
この人は駄目だ。
この人は………。


「待ちなよ」
引っ張られる様に腕を掴まれる。
今の今まで走っていたせいか、不自然な格好で身体が止まった。
勢いが付き過ぎて、止めた人物へと思い切りぶつかってしまったけれども。
「どうして逃げるんだい?」
しっかりと両手首を掴まれたまま、耳元で囁かれた。
その音程に、ゾクリとした震えが身体を襲う。
「離して下さい…」
「君が理由を話してくれたらね。それまでは離さない」
耳に掛かる息と音の振動に、力が抜けそうになる。
必死の思いで足を叱咤し続け、やっと立っていられる状態だ。
「嫌、なんです」
「何が」
足がガクガクと奇妙な痙攣を始めている。
少しでも気を抜けば、地面に崩れてしまいそうだ。
あぁ、早く離して欲しい。
お願いだから。
「ヒバリさんといるの、嫌なんですっ」
叫んだ声は、我ながら悲鳴の様だった。
それ程に、切羽詰っていた。
「ふぅん」
自分から聞いてきたというのに、彼はさして興味がなさそうな返事を寄越した。
そして、低い低い声で囁かれる。
「それは、僕の事が好きだから?」

心臓がドクリと音を立てた。

「な、何言っ…」
「何時もは呆れるぐらい素直なのに、こういう時はとぼけるの?それは卑怯なんじゃないかな」
クスリと小さく笑う声が聞こえる。
彼は知っているのだ。
その事実に、羞恥で顔が赤く染まっていくのを感じた。
「馬鹿な事言わないで下さいっ!」
振り返って睨み付けると、意外にも真剣な目が此方を見下ろしていた。
続けようとした言葉は、その視線の前では力尽きてしまう。
出てこない言葉を発しようとしていた口を開けたまま、目の前の人物と見詰め合う。
「馬鹿な事?本当に?」
「……ぅ」
重ねられる疑問に、顔を俯かせる。
これ以上、否定する事なんて出来そうになかった。
「三浦ハル」
手を自由にされたと同時に、顎を捉えられる。
再び絡まった視線は、危険な光に満ち満ちていた。
危険だと解っていたのに、どうしても視線を逸らせない。
既に囚われてしまっているのだと、その時初めて気付いた。
「まだ、逃げたい?」
答えなど解り切っている質問に、痛みを堪えて目を閉じる。


この人だけは駄目なのに。
好きになってはいけないのに。
きっとこの先、相当に苦しい想いをする事になるだろうから。
何もかも、全てを奪われてしまうだろうから。
それが解るから、全力で逃げた。
けれど結局は捕まってしまうのだ。
それは自分の想いを、こんなにもハッキリと心が認知してしまったせいか。
それとも、彼の存在がそうさせてしまうのか。


唇に触れる甘い感触に、どうしようもなく切なくなる。
零れた涙は、それすらも彼のものだと言わんばかりに、彼の衣服へと吸い込まれていった。







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