とりかえっこ
肩を叩かれて振り返った。
其処までは良かった。
「………はひ?」
背後に立っていたのは正一で、何が嬉しいのかやけにニコニコと満面の笑みを浮かべている。
「正一さん、何か良い事でもあったんですか?」
「うん。ちょっと、思いも寄らない出来事があってね」
「そうです、か…」
余程嬉しかったのだろうか、正一は何時までも口端を上げている。
それが何故かとても不気味に思え、ハルはこっそりと相手より一歩退いた。
何時もの彼はムッツリと顰めっ面をしている事が多いだけに、余計に得体が知れない。
「それじゃハルは忙しいので、この辺で失礼しますね」
これは早々にこの場から離れた方が良いかもしれない。
自分の直感を信じ、ハルは早口で別れを告げると踵を返した。
が、途端に肩をガッシリと掴まれて身動きが取れなくなる。
「はひっ」
「どうして逃げるのかな」
結い上げたポニーテールの先端までもが固まった様な、そんな錯覚を受ける程にハルは仰天して、恐る恐る相手に視線を向ける。
「いえ、ランナウェイだなんてそんな。ハルはただ用事があるだけで…」
「君の午後の予定は、僕とお茶をする事だよ」
「……はい?」
「好きなもの取り寄せてあげるから、僕の部屋においで」
「え、あの…はひぃぃっ!?」
気付けば腰にまで片手が回され、あっという間に正一の腕の中に納まってしまっている。
「しょしょしょ正一さん!」
「ん?」
「ななな、何が、一体どうしちゃったんですか!?」
「何って、嬉しい事があったってさっきも言ったよね」
「それとこれと、どんな関係が…っ」
ハルは半狂乱になりながら両手を正一の胸板に当てて、何とか相手を引き剥がそうと突っぱねる。
しかし正一はそれを面白そうに見下ろすだけで、一向にハルを解放しようとはしなかった。
何かがおかしいと、ハルは慌てて青年を見上げる。
悪戯めかした目はまるで全く違う人間にでもなったかの様で―――そう思った瞬間、何故か一人の男の姿がハルの脳裏を横切った。
「正一さん、白蘭さんに何かされましたか…?」
ハルは胡乱な表情で、正一の面をまじまじと見詰める。
そう、この態度はまるで白蘭だ。
笑顔も口調も何もかもが、彼そのものと言っても良い。
「何もされてないよ?」
「…でも、正一さん…」
ハルが尚も言い募ろうとしたその時、正一の背後からバタバタと複数の足音が近付いて来た。
「白蘭サン!」
焦った様な駆け足に伴い、怒鳴り声まで聞こえて来る。
この声は確か、スパナの筈なのだが…。
「…?」
正一の腕に抱きしめられたまま顔を覗かせると、案の定スパナの姿があった。
妙に険しい顔で通路の中央に立ち止まり、背後に白蘭を従えているその光景はとてつもなく異様だ。
「…え、何ですかその組み合わせは」
思わずハルがそう突っ込みたくなったのも当然だろう。
スパナの背後に居る白蘭の方はと言えば、然して興味が無さ気な表情で、通路各所に設置されている監視カメラを見つめている。
普段の彼は、ハルと見れば笑顔で近付いて来るというのに、今日は一体どうしたのだろうか。
直ぐにセクハラに及ぼうとする彼よりは大分マシだが、これはこれで怖いものがある。
そして更に妙なのは、スパナがこんなにも激怒している事だ。
喜怒哀楽の何れにせよ、此処まで表情を変えている彼を見るのは初めてかもしれない。
「何言ってるの、スパナ君。『白蘭サン』は君の直ぐ傍にいるでしょ」
クスクスと笑いながらも、しっかりとハルを抱き込んだままの正一が顎でスパナの後ろを示す。
「誰がスパナですか!いい加減人の身体で遊ばないで下さい!!おい、スパナ!お前もボーッとしてないで、何とかしろよっ」
今にも泣きそうな顔をしたスパナが、白蘭を振り返って叫んでいる。
が、白蘭は苺味な飴の袋を破きながら、ぼけーっとした視線をスパナに向けるだけだ。
「ウチの専門外だから、こればかりはどうしようもない。それより正一。ハルが混乱してるし、説明した方が良いと思うけど」
白蘭は淡々とした口調でハルに視線を向け、包装紙の取れた飴を口に運ぶ。
「え、スパナさ…正一さん?白蘭さんがスパナさんで…はひ?はひ?」
正一とスパナと白蘭と、順番に見渡してハルは口を閉じた。
グルグルと旋回している目の玉を見れば、今の彼女の心境は嫌でも理解出来るだろう。
「あ、ハル御免。えっと、何から説明すれば良いのかな…」
そんなハルの様子に気付き、スパナは我に返った様に身を引くと、片手で頭を軽く掻き毟りながら視線を床に落とす。
「簡単に言えばね。正チャンの実験が大失敗して暴走した挙句、その部屋に居た僕と正チャンとスパナ君の肉体が入れ替わっちゃったワケ」
「色々と省き過ぎ…。でも、間違ってはいないな」
ハルの頭上から聞こえて来る説明に、前方の白蘭が一度頷いて合いの手を入れている。
声音は確かに正一と白蘭だというのに、話し方はどう聞いても白蘭とスパナだ。
ハルは混乱の最中にある脳味噌を無理矢理に落ち着かせ、大きく深呼吸して気持ちを静める努力を試みた。
二度、三度深呼吸を繰り返したおかげか、先程よりは考えが纏まりそうな気がして来る。
「つまり、今の白蘭さんは正一さんで、正一さんはスパナさん、スパナさんは白蘭さんになっていると、そういう事でしょうか」
「そうそう、流石ハルちゃん。飲み込み早いなぁ」
せっかく頭の整理が付いたというのに、ギュッと愛しそうに抱きしめられ、ハルは小さく悲鳴を上げて再び正一の腕の中でもがく羽目となる。
「うわぁぁ、白蘭サン!僕の身体でそんな真似しないで下さい!!」
ハル以上の絶叫をスパナが発し、その声量のデカさに、背後に居た白蘭が顔を顰める。
「正一。ウチの身体で叫ばないで欲しいんだけど…」
「あははは、良い眺めだねぇ。滅多に見られないよ。スパナ君のそんな姿」
この状況を心底楽しんでいる正一(中身白蘭)と、嘆き悲しんでいるスパナ(中身正一)と、やや迷惑そうな白蘭(中身スパナ)の三者に、ハルは呆然とする事しか出来なかった。
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