穿つ言葉と現実と
乾いた音が辺りに響いた。
頬を叩かれたのだと、後にじわじわと襲い来る痛覚によって漸く認識する。
「しっかりしなさい!」
胸倉を掴まれぼんやりとした視線を向ければ、零れんばかりに涙を溜めて、此方を睨んでいる双眸が目に入った。
「こんな所で呆けている場合じゃないでしょう!早く立って、走るんです!!」
鼓膜が揺れるぐらいの声量が、耳元で爆発している。
それでも気力は湧いて来ない。
目の前で倒れ伏したままの身体が、全ての力を根こそぎ奪い取って行ってしまった様だ。
足に力を込めようとする意思すら、言葉として脳裏に浮かんで来なかった。
「獄寺さん!!」
悲鳴に似た怒声も、ただ耳元を滑って転がり落ちるだけ。
膝を濡らす、ヌラリとした赤い水溜りが、視界を侵食して暗く塗り潰して行く。
守れなかった。
自分の命を引き換えにしても守り抜くのだと、それが右腕としての勤めだと決意して此処まで赴いたというのに。
実際は全くの逆で、この人に救われてしまう始末。
銃弾が自分の頭を貫こうと飛んで来た瞬間、突き飛ばされたあの手の平の感触が今でも残っている。
勢い良く突かれた胸が、呼吸すら止めてしまうのではないかと思う位に、強く深い衝撃を添えて絶望へと塗り変えたあの感触。
結果、尊敬して止まないボスは息絶え、自分はこうして生き延びてしまった。
「俺が…、どうして、どうして俺が…」
何の助けにもならない呟きが零れる。
無駄だ。
全くの無駄だ。
この声も、涙も、想いも、己自身でさえも―――。
「…10代目を助けられなかった俺なんて、何の存在価値もないじゃねぇか…」
ぼろりと、綻びを纏った言葉が漏れた瞬間、前方から凄まじい殺気が沸き立つのを感じた。
絶望で立つ事すら出来なかった自身が、反射的に身構えてしまうぐらいに強く。
「ふざけないで下さい」
怒りを押し殺した声が聞こえる。
それに伴い、掴まれた箇所から小刻みに震えが伝わって来た。
「貴方に何の価値も無いと言うのなら、どうしてツナさんは、貴方を庇って死んだんですか?」
瞬間、言葉が鋭利な刃物へと形を変えて、胸に突き刺さった。
「そんな価値の無い人間を守り、死んで行ったツナさんは、愚か者だと…単なる馬鹿だと、貴方はそう言いたいのですか」
見開いた目が、強靭な意志を宿した視線とぶつかる。
「違……う」
「でもそう言ってるも同じです。貴方が自分を蔑めば蔑む程、ツナさんを貶めている事になるんですよ」
唐突に胸倉を離され、重力に沿って再度地面へと座り込んだ。
「ツナさんを侮辱しないで下さい。――幾ら獄寺さんでも、許しません」
冷たい声に隠された熱い怒りが、空気を通して肌へ伝わって来る。
「急ぎましょう。もう余り時間がありません。敵の狙撃距離からして、そろそろ追い付かれる頃です」
この女には不釣合いなぐらい禍々しい銃身が、その手の内から顔を覗かせている。
油断無く辺りの気配を探る姿に、気付けば自分もまた立ち上がっていた。
「10代目は…」
「今は、無理です」
視線を地に落とし、彼女はゆるりと首を左右に振る。
此処に置いていくしかないのだという事は、自分でも最初から解りきっていた。
それでも尋ねたのは、最後の切欠が欲しかったからに過ぎない。
此処から立ち上がり、走るだけの気力を備える為の、今は何より重要な力。
「………ツナさん、後で迎えに来ます。必ず、来ますから。…だから、待っていて下さい」
血溜まりに伏せっている死体へ、彼女は静かに話しかけた。
そして、愛する者に背を向けて走り出す。
「強いな、ハル」
先程打たれたばかりの頬が熱く、走りながらも片手で押さえる。
本気の平手打ちが、今更になって身に染みて来た。
「奇麗事だけではこの世界を生きていけないと、貴方が教えてくれたんですよ。獄寺さん」
自分の速度に負けず、ピッタリと横を走るハルの横顔が、微かに此方へと向けられる。
それは寂しく、悲しい、けれど後悔はしていない者が持つ表情だった。
「そうか…そうだった、な」
自分でも忘れてしまっていた台詞を思い出し、一瞬だけ自嘲の笑みを浮かべると、後はただ走る事のみに集中した。