うみだされるいたみ






冬の海は酷く厳しくて、誰をも寄せ付けない深い深い色合いで人を拒む。
少しでも手で触れ様とすると痛みを伴う圧力を指先に加え、きっと、近付く者全てを追い払ってしまうのだろう。
そんな孤独の水面を持つ人だと、最初に出会った時に何となく思ったのを、今でも覚えている。
それはこの人が、未だ自分に心を許してくれてはいないから。
意図せずとも、そういった雰囲気や思考等、傍にいれば嫌でも解ってしまうものだ。
「ハル」
砂浜を歩く足音が、サクリサクリと耳に届いた。
背後から掛けられた声に、しかし振り向いてやる事はしない。
これが自分なりの、精一杯な抗議。
「そろそろ戻りましょう。このままでは風邪を引いてしまいます」
肩に掛けられた温かなコートに、ハルは思わず肩を震わせた。

その優しさは、憐憫から来るものですか?

振り返って叫んでやりたい衝動を寸でのところで堪える。
「嫌です」
「ハル…」
小さく聞こえる溜息と、そして頭に乗せられる大きな手の平。
ハルは眼前に広がる海から足元へと、スイと視線を落とした。
「骸さん。お別れしましょう」
青年の溜息に負けない程の小さな呟きに、頭を撫でていた手が止まる。
その表面にあるのは、きっと驚きの表情。
「僕の事が、嫌いになりましたか?」
落ち着いた静かな声に、深い悲しみが聞き取れる。
海の波音にも似た、慟哭の影がイメージとして真っ先に浮かんだ。
「いいえ」
「では何故?」
頭上に置かれたままの手はピクリとも動かない。
その肌が震える事も無い。
つまりはそれだけ、彼もまた辛い想いを抱えているという事。
「お別れしたいと、ハルが望んだからです」
足元から視線を上げ、ゆっくりと背後に立つ青年を振り返る。
瞬間、色違いの瞳が真っ直ぐにハルの目を射抜いた。
「本当に?」
「…はい」
返事がワンテンポ遅れたのは、骸の目に気圧されたからだ。
これは嘘では無い。
別れたいと思ったのも、そう望んだのも、全てがハルの出した答えだ。
けれど、唇が微かに震え、目頭が熱を帯びるのだけは、どうしても止められなかった。
「ハル」
「……っ」
ぼやける世界に、只一人、骸だけの顔がある。
それすらも滲み始めて、耐え切れずに再び顔を俯かせた。
鼻先を伝って落ちる雫が、パタリと砂上に落ちて行く。
その部分だけ沈んだ濃い跡は、周囲の砂を固まらせ、ひとつふたつと仲間を増やし始める。
一度溢れ出してしまえば、後は乾き切るまで止められない。
声も無く泣くハルを悲痛な顔で見下ろし、骸は両腕でその身体を抱きしめた。
「ハル」
「………」
「ハル、僕は…嫌です」
「……卑怯、ですっ」
「えぇ、解ってます。でも、嫌です。嫌なんですよ、ハル」
「……ぅ、う…」
「愛してます。誰よりも、何よりも、貴方を。だから、別れるなんて言わないで下さい」
「…だ、…って」

それならどうして、ハルに心を許してくれないんですか。

その言葉だけはどうしても言えず、骸のシャツを濡らしながら、ハルは嗚咽を漏らす。
最初は小さかったそれは次第に大きさを増し、海鳴りに負けない程の号泣と化して行った。
骸の言葉は真実だろう。
それは解っている。
解っているのだ。
問題なのは、彼自身にすらそれがどうしようもないのだという事。
恐らく、彼の出生に関わる何かが原因で、そうなってしまったのだろう。
自分の事を余り語らない人だが、何時だったかポツリと洩らした事がある。
普通の人とは違う生い立ちと、地獄を味わって来た青年。
その事が、最終的な拒絶を身に染み込ませてしまった。
どうしようもない、孤独と寂寥。
青年の持つそれを、自分には埋められない。
心の傷は、癒えるものと癒えないものがあるから。
彼は間違い無く後者の傷を抱えており、誰にもどうする事も出来ないのだ。
だから、離れたかった。
こうして口にするだけで、いっそ死んでしまいたいという想いにすら駆られてしまう程、彼を愛しているからこそ。
傍に居たい。
心がいたい。
居たい、痛い、いたい。
潮騒がハルの泣き声に呼応する様にして変動し、砕け散っては再び押し寄せる。
終わる事の無い永遠の迷路の真っ只中に、ハルと骸は立っていた。
後何度、こうして抱き合い、泣く事になるのだろう。
今のハルには、震える手で骸の背中に手を這わせ、決して掴めない彼の心の代わりに、その身体を強く抱きしめる事しか出来なかった。
見つかる事の無い出口を、二人してただ求め続けたまま。







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