うしと見し世ぞ今は0.5






触れても、触れても、想いは擦り抜けて行く。
後どれぐらい走れば、僕は君に辿り着けるのだろうか。


「ハル」
もう二時間も窓辺に佇んでいる姿に、正一は小さく呼び掛けた。
「………」
返事は、無い。
端から期待等してはいなかったけれど、それでも落胆している自分に気付き、僅かに顔を顰めた。
彼女の視線は、じっと窓の外に注がれたまま。
左手をガラスに這わせて、天空から降り注いでいる雨をぼんやりと見ている。
…否。
彼女が見ているのは、雨ではない。
今はもうこの世に居ない、唯一人の面影を雨に重ねて見ているのだ。
そう知った瞬間、奇妙な焦りが正一の中に生じた。
「ハル」
背後に立つと、垂れ下がっている右手に触れる。
ひんやりとした体温が手の平に伝わるが、やはり反応は無い。
感覚が死んでしまってでもいるかの様に、彼女は変わらず窓の外だけに視線を注いでいる。
以前よりも確実に、ハルの症状は酷くなっていた。
もうこの程度の接触では、ハルを此方の世界に引き戻す事は難しい。
どうすれば良いのだろう。
どうやれば良いのだろう。
彼女を此方側へ引き戻すには。

彼女に、自分の存在を感じて貰う為には。

「…ナさん」
小さな呟きが聞こえたと同時に、不意にハルの指先が動いた。
窓にぶつかり、水の軌跡を残しながら伝い落ちる雫に合わせて、人差し指をゆっくりと上から下へ流している。
薄く微笑んだその表情が幸せそうで――あんまりにも幸せそうで、正一は反射的にハルの身体を背後から抱きしめていた。
そのままハルの手首を強く掴み、指先を窓から無理矢理に引き剥がす。
「………?」
不思議そうな表情が、漸く此方へと向けられた。
けれど今は顔を見られるのが嫌で、正一はハルの肩へと顔を埋める。
情けなくも止まらない涙が、徐々にハルの服へ染み込んで行った。
「入、江さん…?」
呼ばれた名前に、胸の奥が酷く痛む。
此方を認識しては居ても、その心は未だ窓の外にあると解っているから。
駄目だ。
こんなのでは駄目だ。
「ハル…、ハル。―――ハル」
どれだけ言葉を連ねても、どれだけ力を入れて抱きしめても、彼女は遥か遠くに居る。
こんなにも焦がれて焦がれて、苦しくて仕方無いというのに、腕の中で僅かに身じろぐその動作さえ、どうしようもなく愛しくて堪らない。
彼女を想う事さえ止めれば楽になれると解っていても尚、追い求めずにはいられないのだ。
「好きなんだ、ハル」
「入江さん…?」
「君が、好きなんだ…」
「………」
顔を伏せたままの告白は、彼女に何の動揺も影響も与えない。
恐らく、その言葉が持つ意味すら、既に解らなくなっているのだろう。
空回りした言葉が宙を舞い、虚しくも自分の元へと戻って来る。
だからこそ、正一はハルを抱きしめる事しか出来なかった。


終着地点が見えなくて、ただただ、ひたすらに走り続けるのみ。
息切れしても足は止められなくて、伸ばしたままの手を引っ込める事すらも出来ないでいる。
どれだけ叫んでも喚いても、君に届かないというのであれば、後はもう、彼の存在ごと君を消してしまう以外に方法はないのかもしれない。







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