うしと見し世ぞ今は0.1
風が吹く度に、水田に植えられた緑の葉が悠然と揺れ動く。
それまでは地上で虫を啄ばんでいた鳥が、まるで鈴の様なその擦れ音に合わせる様にして舞い上がって行った。
紅い空に映える白き背中を下方より見上げ、ハルは小さく息を吐いて足元に視線を落とす。
自分の立つ畦道の黒土は、田から溢れた水気をしっとりと含んでおり、少しでも身動きすれば爪先が地面に埋まってしまいそうだ。
実際、慣れない土地に足を踏み入れている背後に立つ人物は、黒い革靴を僅かに汚してしまっている。
「………」
無言で足先を軽く振る姿に、思わず笑いが込み上げて来た。
「何?」
気分を害してしまったのだろう、その声に僅かな怒りの気配がある。
「いえいえ。そんなヒバリさんの姿を見られるなんて、ハルは何てラッキーなんでしょうと思って」
口元を押さえて笑いを呑み込むと、視線を相手より逸らし再び空を遠く見据えた。
先程まで見えていた白い鳥は、既に空の彼方へと消え去ってしまっていた。
しかし姿こそ見えないものの、耳を澄ませば遠くから鳥の甲高い鳴き声が聞こえて来る。
急き立ててでもいるかの様なその調子からして、愛しい子鳥を呼んでいるのだろう。
夕暮れも近いから、共に巣へと帰っている最中なのかもしれない。
「…かえる」
「はひ。怒っちゃいましたか?」
ボソリと呟かれた言葉に振り返ると、雲雀は憮然とした面持ちで自分の靴先を視線で示した。
「違う。カエルだよ。さっき飛んで来た」
「――あぁ、青蛙ですね。キュートです」
雲雀の足元を覗き込む様にして屈むと、硬質な表面に緑色の生き物が張り付いているのが見える。
クルンとした丸い黒目が、此方をじっと見返して来るのに笑い、ハルはそっと優しい仕草で蛙を水田の方へと追い払った。
「意外だね」
「何がですか?」
無事に水田の中へと飛び込んで行く姿を見送り、黒スーツに身を包んでいる青年を改めて見上げる。
「君が蛙の扱いに慣れてるとは思わなかった」
「あはは、それですかー。だって此処は、ハルが小学に上がるまで住んでいた所ですから。並盛近くには、小学生の頃に引っ越したんですよ」
「ふぅん」
どうでも良いと言った返事で、雲雀は視界一杯に広がる水田を見渡した。
「だから、並盛の次に思い出深い場所なんです…」
同じく水田を見つめているハルの横顔は、何処か思いつめた様な感が漂っている。
そんな彼女をチラリと見遣り、雲雀は小さく息を吐く。
言いたい事は山の様にあるけれども、此処は自分が口を出すべき事では無い。
例え後悔する事になろうとも、彼女の進むべき道は彼女自身で決める事なのだから。
「沢田はどうしたの」
無理矢理すり替えた質問に、ハルの顔がハッキリと強張る。
それまで郷愁に細められていた目は大きく見開かれ、雲雀を怯えた様に映し出す。
「じゅ…ツナさんは、忙しいから……」
言い訳を用意していなかったのだろうか。
否、用意はしていたが、余りに唐突な問い掛けに咄嗟に返答が出て来なかったのかもしれない。
「そう。部屋から全く出て来ない所を見ると、彼は余程忙しい毎日を過ごしているんだね。そんな中、秘書の君が日本に戻って来ても大丈夫だったのかい?」
「………はい。リボーンちゃんにもお許しは貰えましたので。イタリアに渡ってからずっと、里帰りなんてする暇もありませんでしたし。この機会に、色々と思い出の場所を回っておこうと思ってます」
山の奥へと沈んで行く夕日が、ハルの横顔に当たって深い影を落としている。
彼女の心情を如実に物語るその影に気付いたのは、つい最近の事だ。
「それではまるで、もうすぐ死に行く人間みたいだよ。三浦」
水田へ小波を広がらせた迷い風が、ハルの髪を掻き乱して去り行く。
瞬時にして虚ろな視線と化したそれを受け止め、雲雀は一歩を踏み出す。
「嘘を吐くのであれば、もう少しマシな顔をした方が良い。僕でなくとも直ぐに解ってしまう」
「ヒバリさ……。知って、いるんですか?」
「どうして僕をこの旅の同行者に選んだのかは知らないけど」
「………」
素知らぬ振りを通す青年に、ハルは猜疑の色を含んだ目を向ける。
普段と変わり映えのしない表情からは、何の情報も読み取れない。
「ヒバリさんなら、ついて来てくれると思ったんです。並盛大好きな人ですし」
「此処はどう見ても並盛じゃないけど」
「後でちゃんと寄りますから、もう少し辛抱して下さい。こんな田舎でも、素敵な景色が沢山あるんですよ?もうスーパービューティフルなんですから」
明るくはしゃいで見せると、ハルは雲雀に背を向けて視線を前方へと飛ばした。
日本に居られる時間は短い。
本来であれば、あの様な状態の綱吉を放って出て来る訳にはいかないのだ。
しかし無理を通しても、もう一度この景色を見ておきたかった。
幼い頃に良く遊んだ水田と、そして後に向かうであろう並盛を。
イタリアへ戻れば、恐らくもう二度と見る事は出来ないだろうから。
その機会は、永遠に訪れないだろうから―――。
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