やがて目に見るその現象
その日は朝からドタバタと、何やら慌しい空気に満ちていた。
特別誰かが走り回っているとか、忙しなく動き回っているとか、そういった光景を見た訳では無い。
施設内はあくまでも日常通りに機能しており、行き交う職員もまた普段通りの物腰で歩いている。
では何が慌しいのか。
答えは施設内の一部、上級クラス幹部の執務室の雰囲気に在った。
何時も通りに上司である入江正一の執務室まで赴けば、其処には昨日と同じく三浦ハルの姿がある。
普段から正一の部屋を自由に出入りする許可を与えられている彼女は、最近は富にこの部屋に顔を出す様になっていた。
「あぁ、君達…来てたのか。お早う」
「はひっ。おはよう御座います!」
同じ衣装を身に纏う二人を認め、正一とハルは寄せ合っていた顔を即座に離した。
内緒話でもしていたのだろうか。
焦りの表情が色濃く出ている二人の顔を眺め、ゆっくりと一礼して今朝分の書類を机の上へと置く。
「お早う御座います。入江様、午後から白蘭様が此方にお越しになるそうですが、如何されますか?」
「白蘭サンが?あの人も暇なんだな…。まぁ、午後からなら大丈夫だろう。どうせ夕方には飽きて帰って行くだろうし。うん、それじゃその様にスケジュールを組んでおいてくれ」
早速今日の予定を事務的に告げる、微塵も動揺を見せない態度に安心したらしく、正一は気を取り直して笑って頷いた。
「はい。それでは私は連絡に―――」
「あ、ちょっと待って」
相方を残して部屋を出て行こうとすると、その直前で正一の声が掛かる。
振り返ると何処か嬉しそうな表情をしている彼が目に入った。
仕事中は滅多にこんな顔はしないだけに、相当珍しい事象である。
恐らくは、三浦ハルが来た事によって何か良い事でもあったのだろう。
そう結論付けて、正一の次の言葉を待つ。
…が、何故か彼は笑顔のまま口を半開きにして固まっていた。
「…?」
余りにも間抜けなその顔に、思わず二の句が告げなくなってしまう。
そのまま、両者沈黙の状態が30秒近くも続く。
チラリと視線を向けてみるが、相方もこれまた黙して成り行きを見守るだけだった。
見兼ねたハルが口を挟まなければ、恐らくそのまま何時間でも過ぎていたに違いない。
「あのですね、今日のお仕事が終わった後なんですけど、お二人にスケジュールを空けておいて欲しいんです。ね、正一さん」
「え?あ、あぁ。うん」
ハルの助け舟で漸く言葉を思い出したらしく、正一はぎこちない仕草で壁に掛かった時計を見上げた。
現在は8:00を少し回ったところだ。
細く長い秒針が、カタカタと正確なリズムで時を刻んでいる。
黒と白で見事な調和を醸し出している日本製の時計へ顔を向けたまま、正一の頭がゆっくりと上下に揺れた。
「今日は少し早めに上がるとして…そうだな、17時辺りか。その位に君達の仕事も終わると思うから、出来ればこの部屋に戻って来て欲しいんだ。格好はそのままでも、私服でもどっちでも良いから」
話し方は普段通りではあるが、一向に此方を見ようとしない正一に妙な不自然さがある。
隣にいるハルが、心配そうにそれを見守っているのも気に掛かった。
「それは構いませんが…」
思わず語尾を濁して、口を閉じてしまう。
一体どんな用事があるのだろうか。
仕事外の活動という事は、極めて私的な用件という事である。
先程の対応を見る限り、この組織のトップである白蘭の来訪とも関係が無さそうだ。
純粋な疑問に左方にいる相方を見れば、彼女も又此方を向いていた。
そして同時に、互いへ向けて小さく頷く。
「解りました。それでは本日17時に必ず参ります」
言葉無き意思を互いに読み取り、相方の台詞に合わせて正一へ向けて一礼をする。
その返事に、漸く正一の面が時計から外れた。
「すまない。有難う、それじゃ待ってるから」
自分達へ向けられた彼の表情は、まるで誉められでもした子供の様に輝いていた。
尤も、本人はそれを隠そうとしてはいたのだろうが。
喜びを押し殺そうとして失敗したらしい奇妙な顔に、今度は肩を震わせてハルが笑いを堪えている。
「正一さん…ちょっとお話が……ぷっ」
「え。僕、何かおかしな事でも言ったかな…?」
口元を押さえているハルと、狼狽する正一の両名へ再び一礼し、相方と共にそのまま部屋を後にすると、扉の向こうから正一とハルが再び何やら話し始める気配が感じられた。
今朝方から感じていた慌しい空気が、またしても浮上して来る。
それは相方も感じていた様だが、彼女はチラリと扉へ視線を向けただけで、己の本日の持ち場へと去ってしまった。
今日は正一の傍について回る仕事は無い。
よって、約束の時刻までは彼の部屋に入る事も無い。
だからこそ、17時からの用件はその時が来るまでは解らない訳だ。
解らない事に対して何時までも頭を悩ませても仕方が無い。
気になる点は幾つもあれど、直ぐ様仕事の事だけに頭を切り替え、自分もまた白蘭のスケジュール担当の者と話を付ける為に磨き抜かれた通路を静かに歩き出した。
白蘭がこの施設を訪れたのは午後ではなく、午前中だった。
彼は飄々とした態度で、レオナルドと名乗る青年と今後のスケジュール調整をしている最中に現れた。
扉を開けて入って来た白い姿に、皆一様に呆然とした表情を向けて沈黙する。
画面越しにも彼の姿は見えたのだろう、瞬間、レオナルドの悲鳴がモニターの向こうから響いて来た。
「白蘭様、何時の間に!」
「あははー。御免ね、レオ君。抜け出して来ちゃった」
泡を噴かんばかりの形相の部下に、全く悪びれた様子もなく白蘭は片手を振っている。
「抜け、抜け、抜け出したって…先程まで部屋にいらっしゃった筈では…!」
「ううん、朝から居なかったよ」
「そんな………もしかして、音声のみの通信にしたのは…」
「そう、外にいる所を見られたくなかったから」
にこにこと上機嫌でモニターと会話していた白蘭は、軽快な足取りで此方へと近付いて来た。
「それじゃレオ君、悪いけどそっち放り出して来ちゃったからさ。多分皆カンカンに怒ってるだろうから、後は宜しくね」
「宜しくって、白蘭さ――」
尚も言い募ろうとした相手の言葉を最後まで聞かず、白蘭は強制的に通信を遮断するボタンを押す。
真横から伸ばされた手に我に返ると、慌てて椅子から立ち上がり頭を深く下げた。
「あぁ、良いよ。一々そんな事しなくても。…えーっと、それより君だったっけ?正チャンの今の世話係さんは。そう、君と…確かもう一人いたよね」
「はい。もう一人は今席を外しておりますが、呼び出す事は可能です」
相手が目上の者だけに言葉を訂正する訳にもいかず、『世話係』については敢えて触れないでおく。
腕に付けた小型通信機に指先を伸ばそうとすると、寸でのところで白蘭は首を振った。
「いや、別に用事がある訳じゃないんだ。ただ、正チャンの顔見るついでに、君達の顔も見ておこうかなと思って立ち寄っただけだしね」
モニターに寄り掛かりながら笑うと、白蘭は部屋の中を興味深気に見渡した。
恐らく彼は一度もこの通信室に入った事がないのだろう。
玩具を見る様なその目付きに、何処か子供じみた仕草が垣間見える。
「入江様にはもうお会いになられたのですか?」
「うん。さっき会って来たよ。何だか今日は忙しいみたいで、早々に追い出されちゃったけどね。…ま、あれなら仕方ないかな」
白蘭が軽く肩を竦めると同時に、彼の腕に付いている通信機がピピピと音を立てて鳴り出す。
自分達に配布されている物とは違う、恐らくは一段と上の機能を持つそれを煩そうに見遣ると、白蘭はモニターから背を起こした。
「うーん、レオ君もなかなかしつこいね。仕方無いなぁ。本当はもう少し遊んで行きたかったんだけど」
台詞とは裏腹に面白そうな表情を浮かべたまま、白蘭は敢えて通信機には触れずに此方を振り返る。
「まぁ、正チャンの世話係さんと会えただけでも良しとしよう。それじゃ、君。もう一人の子と、今日はゆっくり楽しんでおいで」
「は、楽しむ…とは?」
「あぁ、まだ知らなかったんだ。んー…ま、どうせ直ぐ解るだろうし。夕刻のお楽しみって事で、僕の口からは言わないでおこう」
「?」
今一掴めない話に、どうにも返答のしようが無い。
けれど相手はそれで満足したらしく、ご機嫌な様子でそのまま部屋から出て行った。
夕刻のお楽しみとは、正一が今朝言っていた用件の事だろうか。
皆目検討の付かない用件に更に疑問が増え、暫く白蘭の消えた扉を眺めていた。
夕刻、17時になる数分前。
正一の待つ執務室へと、相方と共に足早に向かう。
私服でも良いと言われたが、上司の執務室で制服を脱ぐ訳には行かない。
結局は二人とも普段通りの格好で、分厚い扉の前に立っていた。
白い扉の直ぐ沸きにあるインターフォンへ話しかけると、直ぐ様正一の声が返って来る。
「どうぞ、入って良いよ」
今朝と同じ、普段通りの話し方だが、やはり微妙に違和感がある。
もしや体調でも悪いのだろうかという心配もあったが、最近はハルも傍に付いているのだ。
彼女の事だから、正一の病気を見過ごす筈も無い。
単なる思い過ごしであれば良いのだが…。
「失礼します」
正一の操作によって開いた扉を潜ると、不意に甘い香りが鼻腔を擽った。
「はひ、時間ピッタリですね!」
部屋中に満ちた優しい温もりの中、ハルと正一は入って来た自分達を見て嬉しそうに笑った。
やはり何処かぎこちない笑顔の正一の前に、何処から運び込んで来たのか大きな丸いテーブルが置かれ、その周囲をぐるりと4つの椅子が囲んでいる。
座れば足元を完全に隠してしまうであろう長さのテーブルクロスの上に、色とりどりの菓子と白い陶器のティーセットまで用意されていた。
先程の甘い香りは、どうやらこれが発していた物らしい。
執務室とは到底思えない部屋の光景に、無言のまま立ち尽くす。
「これは、一体…?」
相方がやはり呆然とした様子で口を開くと、正一は瞬時に顔を赤くして助けを求める様にハルを見た。
「正一さん。ハルにばかり頼ってないで、少しは自分で言わないといけません」
しかし彼女はアッサリと正一の頼みを切り捨てる。
「う、いや…そうなんだけど」
「ほら、早くしないとお二人も困ってますよ?」
ハルの言葉に、正一は恐る恐る此方を見る。
直視する二対の視線に気付くと、彼は再びあらぬ方向へと目を背けてしまった。
「正一さん」
「わ、解ってるよ」
ハルに背中をポンと叩かれ、正一は視線を他所へ流したまま口を開く。
「その、今日は…何時も世話になってる君達に、お礼をしたいと思って…ね。本当は何かプレゼントするのが良いかとも思ったんだけど…君達が何を好きなのかも知らないし、だから…こういうのも、どうかなって」
彼らしからぬ、しどろもどろになりながらの説明に、漸く此処で現状を理解する事が出来た。
「正一さん、今日の為に色々と用意してたんですよ。本当はもっとスムーズにお誘いする予定だったんですが、いざ本番となるとあがってしまったらしくて。朝なんて凄い顔ばかりしてましたし」
「仕方ないだろ…。今まで一度も、こんなのやった事ないんだから」
「はいはい、そうですね。お茶会の開催を一番喜んでたのは正一さんなのに、本当に素直じゃないんですから。ささ、お二人とも此方に座って下さい」
近くの椅子を引きながら、ハルが此方へと手招きする。
一瞬だけ相方と顔を見合わせると、促されるままに彼女が引いてくれた席へと腰を下ろした。
上司より先に座る等、本来の自分であれば考えられない事だ。
しかし今日は何故か、素直に腰を落ち着けてしまっている。
「………」
正一はと言えばハルの言葉に反論も出来ず、相変わらず顔を赤くしたまま宙を見ていた。
珍しい上司の態度と、甘い香りに満ちた空間。
もしかしなくても、これが自分の調子を狂わせているのかもしれない。
「さっき、何枚か白蘭さんが食べてしまったんですが、クッキーもありますので欲しければ言って下さいね〜」
ハルが紅茶をカップに注ぎながら、正一にも座る様に指令を出している。
丁度自分の正面と向き合う形になった上司は、此方の反応を伺う様にチラリとだけ視線を向けて来た。
見事にぶつかった目線に、正一の動きが固まる。
「入江様」
「う、うん。何?」
その様子に思わず口元が綻んでしまったのは、この部屋の空気に呑まれた為だ。
最初は戸惑うばかりだった空気も、時間が経つにつれて自然と身体に染み込んでしまっていた。
きっとこれが、ハルが普段から話していた茶会の魔力というものなのだろう。
「有難う御座います」
柔らかな笑みを零した自分の顔に、正一がカップを引っくり返しそうになったのは、後にハルが良く語る笑い話の一つとして有名になる。
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