やがてそれは実を結ぶ







覗き込んで来る顔が余りにも心配そうで、目を覚ましたばかりのハルは、ぼんやりと片手を伸ばしてその頬に触れていた。
「大丈夫ですか?」
「はひ」
「魘されてましたよ。何か悪い夢でも?」
「悪い、夢…」
頬にひたりと当てられたハルの片手に自分の手の平を重ね、骸はその温度を確認する様に一度目を閉じる。
「変な、夢を見たんです。…骸さんが、ハルのお兄さんじゃなくて…全く見ず知らずの他人で、それでツナさんの敵として現れて…ハルと出会う、そんな夢でした。もう、あまり覚えてないんですけど」
「それは…」
先程まで眠りの中にいたせいか、ハルは未だ眠そうな表情でゆっくりと瞬きを繰り返している。
出来ればこのままもう一度眠りたいと、彼女がそう考えているのが骸には手に取る様に解った。
「随分と可笑しな夢ですね。…さぁ、起きて。もう朝ですよ。このままでは遅刻してしまうでしょう」
ハルの片手を柔らかく握り、もう片方の手でベッドに沈んだままの身体をゆっくりと引き起こす。
「はひー…後10分だけ」
「駄目です。貴方はそう言って何時も寝坊しようとするんですから。僕がいないと、立派な遅刻魔になっていますよ」
柔らかい動作ながらも強引に起こされ、膨れる妹の頭を優しく撫でると握っていた右手をそっと離す。
名残惜し気な瞳が向けられたと思ったのは、きっと此方の錯覚に過ぎないのだろう。
「それに骸さん、ではなくお兄さん、でしょう?まだ夢を見ているんですか、ハル」
幼い子供の様に、再び毛布の下へと逃げ込もうとする身体をやんわり押さえ、くすりと小さく笑う。
再び夢の中へダイブという目的を阻害され、ハルは恨めしそうに骸を見上げた。
「いけませんか?」
「そうではありませんが…父も母も驚くでしょう」
「はひ。でも、ハルはそう呼びたいんです」
俯きがちな顔に憂いの影を見つけ、骸は小さく溜息を零す。
「どうやら余程、夢の世界は楽しかった様ですね」
「楽しい……ハッピーでは、そんなになかったです。骸さんはホラーな姿をしてましたし、ハルも怖がってばかりでしたから。でも………」
「でも?」
言葉に詰まった少女は何度か視線を宙へ彷徨わせ、結局首をゆるりと振って憂い顔を霧散させた。
「いえ、何でもないです。ハル、着替えますね。だから骸さんは早く出て行って下さい」
「やれやれ、もう僕は『お兄さん』ではなく『骸さん』に定着してしまった訳ですか」
「はい、もう決めました」
「別に構いませんが…二度寝は駄目ですよ?」
「はーい」
ハルの身体を離す代わりに念だけは押しておき、骸は折り曲げていた長身を起こした。
部屋を出る際、嬉しそうなハルの顔を視界に入れてしまい、思わず此方の表情も綻びてしまう。
「骸さん、か…」
小さく呟いた自分の言葉に、脳裏に染み込んだハルの声が自然と浮かんだ。
悪い気はしない。
否、其方のほうがずっと良い。
くすぐったい様な不思議な感覚に、骸は廊下の壁に背を付けてのんびりとハルが出て来るのを待つ事にした。
万一15分を過ぎてもハルが出て来ない様なら、再び部屋の扉をノックしなければならないだろう。
そう現実的な理由付けをしてみても、浮き立つ心はどうにも収まりそうに無い。
心の中に春風がふわりと舞い込んで来たかの様だ。
それ程に、先程のハルの言葉が嬉しかった。
彼女の夢の中に登場したという自分は、一体どんな人間だったのだろうか。
怖いという台詞から考えても、余り良い出会いをしたとは思えないが、それでもハルの顔は恐怖に慄いてはいなかった。
寧ろ、再び夢の中の自分に会いたいと思ってさえいる様な、そんな印象すら受けている。
少々妬ける事ではあるが、単純に嬉しさの方が先立つ内容だ。
何せ夢の中では、自分とハルは兄妹ではないというのだ。
全くの他人というのも少し寂しいものがあるが、それでもその方が自分にとってはとても良い環境である。
そう、恋愛をする為には、血の繋がりが最大の障害なのだから。
「全く…困ったものですね」
何時から妹をそういう目で見始めたのか、自分でも良く解らない。
ただ、気付けばハルを家族としてではなく、一人の女性として見ていた。
それだけは確かだ。
だからこそ、ハルの夢の世界に憧れすら抱くのだ。
恐らく、夢の中の自分は幸せだったろう。
ハルに想いを告げられるチケットを手に入れた骸は、どんな風に彼女へと迫ったのか。
もう少し詳しく話を聞いてみたい思いが一気に膨れ上がったが、それを綺麗に抑え、骸は身支度を整えて出て来たハルに微笑み掛けた。
「…ハル、そんなに信用ないですか?」
廊下で待ち伏せしていた兄の姿に、ハルは拗ねた様に呟く。
「信用されたいのでしたら、二度寝をして再び僕に叩き起こされる悪習を直しなさい」
「はひ、あれは偶々ですよ!」
「週に3〜4回もある事を偶々とは言いません」
「そ、それは…」
「ほら、早くしないと御飯も冷めてしまいますよ。朝食抜きで学校に行きたくはないでしょう」
「はひー」
笑いながらハルの手を引き、急ぎ足に見せ掛けてゆっくりと階下へ向かう。
繋がった手の平から、じんわりと温もりが伝わって来る。
「………」
心まで温められるハルの暖かさに、骸はひっそりと目を細めて口端を緩ませた。
恋愛は出来なくとも、こうしてずっと手を繋いでいられる、そんな関係で在れるなら―――それはそれで良いのかもしれない。
ハルが妹なのはもうどうしたって変えられない事実なのだし、そんなハルをこの自分は好きになったのだから。




「お前らってさ…本当に仲良いよね。異常なぐらい」
呆れた様な表情と声に、ハルはぱちくりと目を瞬かせる。
「はひ、突然何ですか?」
新学期の席替えで隣同士となったばかりの綱吉は、配布された教科書の先をトントンと揃えながら、胡乱な目付きでハルを見ていた。
「ハルと骸、ずっと一緒に登下校してるだろ?少なくともオレが見た限り、ほぼ毎日」
「だってハルの兄ですし」
「手だって繋いで歩いてるみたいだしさ」
「兄妹ですから」
「いや、それ明らかにおかしいだろ」
「はひ?」
綱吉の突っ込みに、しかしハルは全く理解していない表情を返す。
その顔に真性を見た気がして、綱吉は脱力と共に一向に揃わない教科書を机の上へと放り投げた。
「お前らがそれで良いんなら、別にいいよ。オレが口を挟む事じゃないし」
「はぁ…」
気の抜けた彼女の返事に、説明する気力は更に低下する。
とはいえ、説明したところでハルが理解出来るとは思えない。
恐らくそれは骸も同じ。
実際、他人が今の二人を見てどう思うのか等、彼等にはどうだって良い事なのだろう。
少々行き過ぎた兄妹愛な気もするが、二人には互いの姿しか目に入っていないのだから仕方が無い。
これは自分が口を出すべき領分で無い事を、綱吉は誰よりも理解していた。
「変なツナさんです」
「ハルに言われたくないよ…」
おかしいのはどっちだと言いそうになる口を閉じ、ハルから机の上へと視線を落とす。
新製品ながらも切り口がガタガタな教科書を軽く睨むと、そのまま何気なく廊下へと目を向けた。
大分気温が暖かくなったせいか、全開になって風を通している教室の窓の外に、骸の姿を見つける。
偶然通り掛ったにしては、彼の顔はしっかりと此方へと向けられていた。
「………」
その目は綱吉を捉えてはおらず、真っ直ぐにハルだけを見つめている。
余りにも熱いその視線に、どうしてハルが気付かないのかいっそ不思議な位だ。
…これは、前言撤回すべきかもしれない。
どうやら骸は、異常な兄妹愛どころかそれ以上の感情をハルに抱いているらしい。
「ツナさん?」
タイミングが良いのか悪いのか、ハルが綱吉の視線を辿った時にはもう、骸の姿は廊下には無かった。
「ハルって…」
「はい」
「実は凄く鈍感?それとも、それは慣れ?」
あんな視線を常に受け続けていて、こうものほほんと過ごせる彼女が恐ろしい。
それとも実は気付いていて、敢えて知らぬ振りを通しているのだろうか。
「ツナさん、さっきから言ってる事が意味不明です…」
「オレもハルが不明だよ…」
本気の困惑顔に、後者は絶対に無いという判断を下し、綱吉は投げ出したままの教科書の上に突っ伏した。




下校途中に骸を引き連れて買い物に出たのは、今朝思いついたばかりの事だった。
別段、今日は彼の誕生日という訳ではない。
それでも兄へプレゼントを贈ろうと考えたのは、やはり昨夜から今日に掛けて見た夢の影響が強い。
夢の中で見た彼は、常に他人には計り知れぬ孤独を纏っていた。
多くの死骸の上に立ち尽くし、ただ呆然と天を仰ぎ見ているその姿に、恐怖と共に言い顕しようの無い感情が迸ったのを今でも覚えている。
夢と現実は全く違うというのに、全く馬鹿げている。
「…それでも、せめて骸さんだけは…」
「何か言いましたか?」
零れた呟きに、骸が振り返る。
途端に回想から引き戻され、店内の至る所に飾られた石の数々が視界に入り、ハルは慌てて首を振って笑った。
「はひ。ちょっとした独り言です」
「そうですか。今日のハルは、随分と独り言が多いですね」
「そ、そんなに言ってましたか?」
「えぇ。此処に来る道中も、何度かブツブツ言ってましたよ」
面白そうに目を細める骸の顔に、ハルは恥ずかしそうに視線を逸らす。
「それで、今日は何を買うんです?」
並べられた置き台の上のみならず、壁という壁、果てには天井からもぶら下がっている石のアクセサリーの一つに、骸はそっと指先を伸ばしながら尋ねた。
薄桃色の可愛らしい石に触れている彼の目元は優しく和んでいる。
「あ、それはもう決めてるんです。ちょっと此処で待ってて下さいね」
そんな兄の姿を一瞬だけ見つめ、ハルは踵を返して目的の品をレジへと運んだ。
何処に何があるのかは、クラスの女子から仕入れた情報で大体解っていた。
実際に現物を見て即座に購入を決めたのは、何よりもその色が相手の左目と同じ色だったからだ。
会計の済んだプレゼントを手に戻ると、彼は言われた通りの場所でハルを待っていた。
夢の中とは違う、幸せそうに微笑んでいるその横顔。
見ている此方まで嬉しくなる様な、そんな表情を浮かべている兄。
あぁ、せめてこの人は…この人だけは、あんな光景を見なくてもすみます様に。
どうかずっとこのまま、幸せであります様に。
夢の中で感じた強烈な衝動を思い返して、強く強く願う。
あの世界の自分達は、血塗れの未来を歩んでいた。
悲嘆と慟哭と拒絶と絶望、何処を見渡しても希望の欠片も無い場所に存在していた。
だから目覚めた瞬間、直ぐにでもあの世界に戻りたいと考えてしまったのだ。
例え悪夢でしかない内容だったとしても、否、だからこそ何とかして彼を癒してあげたかった。
たかが夢だと笑い飛ばせない程リアリティに溢れた夢だったからこそ、骸を幸せにしてあげたかった。
そう願うのはきっと、自分が兄に対して抱く特別な気持ちがあるからだろう。
呼称を突然変える気になったのも、もう隠しておく事は困難だと認めるしかなかったからだ。
夢は時として、人の心を如実に映し出す鏡となる。
今朝は、骸に対する自分の感情が如何に強いのか、再認識させられてしまった様なものだ。
「お待たせしました」
優しい笑みを絶やさない兄に呼び掛けると、柔らかな視線がハルへと注がれる。
「おや、早かったですね。もう良いのですか?」
「はひ。骸さん、これを」
「これは?」
「ハルからのプレゼントです」
簡易包装の施されたプレゼントを骸に押し付けると、ハルはその腕を引っ張って店外へと足早に連れ出した。
店の中に置かれている石には全て、それぞれの石言葉が書かれたプレートが掲げられている。
骸が石言葉に詳しいとも思えないから、それらを見ない限り気付かれる事は無いだろう。
真っ直ぐに自分の気持ちを伝えるにはまだ、兄妹という血の縛りがハルを押さえ付けていた。
骸の手中にある、綺麗な青色のフローライト原石の石言葉を思い出し、ハルはそっと息を吐く。
彼の左目と同じ色をした石が持つ言葉は、秘密の愛。
ハルの骸に対する気持ちそのままの言葉だった。






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