ゆらりゆら
頭を鈍器で殴られた、まさにそんな衝撃。
「…え?」
綱吉は呆然とした表情で、目の前に立つ少女を見つめた。
「ハル、今…何て?」
繰り返し尋ねるのは、ただ純粋に信じられなかったからだ。
それ程に彼女の言葉は常軌を逸していた。
少なくとも、今までの綱吉にとっては。
「はい、ハルに恋人が出来たんです」
にっこり笑って同じ言葉を口にする彼女が、まるで異形の者の様にさえ見えてくる。
彼女ハ一体、何ヲ言ッテイルノダロウカ。
「恋…人?」
「はい。だから今日で、ツナさんからは卒業です。今まで追い掛け回したりして、本当に御免なさい。これからは、お友達として改めてお願いします!」
ペコリと一礼する姿に、不意に眩暈が襲い来た。
「あ、…あぁ。そうなんだ………相手は、誰なの?」
「はひ?それは…その内解ります。ツナさんも良く知っている人ですから」
再びハルの顔に宿る笑顔に、彼女が言っているのは正真正銘真実なのだと嫌でも解った。
「そっか。…おめでとう」
「有難う御座います!」
報告を済ませた彼女に、悪いと思っている様子は無い。
当然だ。
自分は彼女の想いに今まで応えず、又その気も無く、そして時々…ほんの少しだけ、鬱陶しいと思う事さえあったのだから。
それは薄々ハルも勘付いていたのだろう。
先程の謝罪が、まさにその証だ。
「それじゃ、ハルはそろそろ行きますね」
「彼に会いに行くんだ?」
「はい。ツナさんも、早く京子ちゃんと幸せになって下さいね」
「………」
幸福を分け与えたつもりなのだろうか。
幸せな人間というのは、時に酷く無神経な事を言う。
否、そもそも自分は笹川京子が好きだったのだから、それには当て嵌まらない。
あぁ、そうだ。
自分が好きなのはハルではなく、あの愛らしく微笑む彼女の方だ。
それなのに何故、こうも目の前にいるハルが気になって仕方ないのだろう。
幸せに、幸せに。
別におかしい台詞では無い。
けれどそれは、京子であれ別の人であれ、ハル以外の人間を示す言葉だ。
何故ならハルはもう、別の男のものとなってしまったのだから。
もう自分を追い掛け回す存在では無くなってしまったのだから。
そう気付いた時の、絶望感。
耐え難い程の、ヒヤリとした喪失感。
何故、今になって気付くのか。
本当に今更。
今更?
そう、今更だ。
全く、愚かにも程がある。
「ハル」
「はひ」
「御免…」
「ツナさん?」
「御免、御免な…」
本来であれば、もう遅いという事は解っている。
それでも、そうだとしても、気付いてしまったのだから仕方が無い。
本当に大切なものは、無くしてしまって初めて解るものだという。
何処かで聞いたそんなフレーズが、ふと頭の奥で蘇った。
「ツナさん、手…離して下さい」
強く握り締めたハルの掌が、怯えた様に逃げ様とする。
それを許さない力で引き寄せると、無理矢理に、此処数年で随分と差が出てしまった身体を抱き込む。
「ツナさん!」
ハルの悲鳴。
それでも、腕の力は緩めない。
「御免。出来ない」
「何が…ツナさん、お願いですからちょっと落ち着いて下さい!」
「出来ないんだ、ハル」
「痛…痛いです、ツナさん。腕、離して……」
痛い?
それは身体が?
それとも心が?
今のハルなら、迷う事無く前者だと答えるだろうか。
此処で自分が好きなのはハルだと告げたら、彼女はどんな顔をするのだろう。
死に物狂いで拒めないのは、まだ自分に未練があるからじゃないのか?
本当に嫌なら、大声で叫んで逃げる事も出来る筈だ。
それをしないのは、本当に好きなのは、恋人となった男ではなく、まだこの自分だからではないのか?
やけに都合の良い解釈ばかりが、次々とテンポ良く出てくる。
しかしそれらは全て、自分の単なる想像だけではないだろう。
最低だ。
ハルを困らせ、ハルを泣かせ、ハルを突き放して、ハルではない別の人間に恋をした。
それなのに、いざハルが幸せになろうとするとこうして引き止める。
自分から離れて行くのが嫌だなんて、まるで子供そのものじゃないか。
こうなってしまったのは全て自分のせいだというのに、悪いのはハルだと頭の何処かで考えてしまう自分がいる。
もっと早く自分の気持ちに気付いて、そしてハルを受け入れていたら…そうしたら、今とは全然違う関係になれただろうに。
そうと解ってはいても、ハルを手放せない。
本当は祝福して送り出さないといけないのに、それがどうしても出来ない。
そんな事をしたら、相手が誰であれ、きっとその男を殺してしまう。
何て独占欲だ。
何て歪んだ愛情だ。
吐気がする程に醜い存在じゃないか、俺は―――。
「ツナさん、駄目です」
「もう遅い?」
「…駄目です」
「遅い?ハル」
「はい」
遅いです。
確かに口ずさまれた台詞は、しかし耳に入っては来ない。
見えない何かで保護されているかの様に、ツルリと滑って地面に落ちて行く。
聞きたくない言葉を全て払い落として、ハルを抱きしめ続ける。
彼女が怯えるのは、此方の気持ちに気付いてしまったせいだ。
そして恐らくは、再び此方に惹かれてしまうかもしれない自分の弱い心を、彼女自身知っているせいでもあるのだろう。
「御免な、ハル…」
だからこそ、自分は彼女の耳元で囁くのだ。
彼女が自分から決して離れられないだろう、恋人を裏切り、この先一生彼女が後悔するであろう言葉を。
「オレ、ハルが好きだ」