うしと見し世ぞ今は8
緊張感に満ちた空間では、足の震え一つ隠すのにも並大抵ならぬ努力が必要だった。
思い通りにならない自分の身体を叱咤し続け、それで漸く立っていられるそんな状態で、ハルはその場に佇んでいた。
入江正一から放たれる視線が、まるで錐の様に鋭く形を変えて全身へと突き刺さって来る。
口を開く動作から視線を流す仕草まで、ほんの些細な事から真実を拾おうとでもするかの如く、彼は真っ直ぐにハルを見据えていた。
微塵も揺るがないその視線に、自然とハルの喉が鳴る。
さぁ、此処からが正念場だ。
如何にして彼等を納得させるか、それがハルの担っている役割だった。
この青年達を欺く事は不可能だと、最初から解りきっている。
問題は欺けるか否かでは無い。
何処まで欺かれてやっても良いと思わせるか、それが重要な点なのだ。
その為にどうするべきか、何をするべきなのか。
それを今、この場で全て見極めねばならない。
彼らの反応を予測し、窺い、そして判断して交渉を進めて行く。
一歩間違えれば自分の命はおろか、下手をすればボンゴレファミリー全体の危機になりかねない。
その位、非常に危険な綱渡りだった。
けれどこれは、絶対にやり遂げなければならないハルの使命だ。
リボーンに約束したからではない。
ボンゴレを救う為でもない。
結果的にそうなるだけの事で、ハルの真意は全く別の所にある。
何をおいても、綱吉を守る為。
ひいては救う為。
その為だけに、今ハルは此処に居た。
呼吸も侭ならない状況で、ゆっくりと瞬きを一つ。
「木蓮様は、お亡くなりになりました」
静かに紡がれた言葉に、正一は薄っすらと目を細める。
暖房が利いている筈の部屋の気温が、確実に一段階は下がった。
「理由は?まさか事故とは言わないでしょう」
正一の口元に冷たい笑みが宿る。
白蘭は先程から面白そうに事の成り行きを見守っているだけで、口を挟む事は無い。
「えぇ。事故ではありません」
腹は括った。
もう、迷いは無い。
「私が殺しました」
今までに一度も、誰にも見せた事の無い笑顔でハルは応えた。
これが謀反の始まりの合図だと、誰よりも何よりも承知の上で。
欲しいものは?
白蘭は問い掛ける。
何度も何度も、ハルが音を上げるまで問い続ける。
本当に欲しいものは決して手に入らないというのに、それを知っていて尚、彼はハルに尋ねた。
高級なシーツに倒れて身体を重ねる度、意識が暗闇に塗り潰されて忘却の波が全身を覆い尽くす度。
繰り返し繰り返し、しつこいぐらいに。
そう言えば、初めて彼が自分を犯した時にも同じ事を訊かれた。
「どうしてそんな事を聞くんですか」
気だるい空気の中、ぼやけた声が宙に浮く。
まだ熱の冷め遣らぬ身体が、下肢が、酷く痛んでハルを苛んだ。
「さぁ。どうしてだと思う?」
「質問を質問で返さないで下さい…」
戯れに伸びてくる手から顔を背け、ハルは上半身を起こした。
空を切ってしまった己の指先を見つめ、白蘭は軽く肩を竦めてハルの上から退く。
未だ体内に入っていた異物がズルリと抜け出て行く感触に、知らず両足が震える。
もう慣れてしまった行為ではあるが、こんなにも簡単に感じてしまう身体が心底厭わしい。
「正直に言えばね、僕にも良く解らない」
均整の取れた裸の上半身を惜し気無く晒したまま、白蘭はベッドから先に下り立って振り返った。
憎らしいまでの綺麗な笑みに、ハルは眉を顰めて髪を掻き上げる。
「嘘吐き…」
「酷いな。嘘じゃないよ?」
「信じられません。一体何が狙いなんですか。…ボンゴレ壊滅の他に…」
薄暗い室内に電光が灯り、ハルは眩しそうに二、三度目を瞬かせる。
センサーに手を翳したまま、彼は低い声で肩を揺らせて笑った。
「他…ね」
「見返り無しで、白蘭さんがそういう事を言うのは有り得ませんから」
「凄い言われようだね、僕も」
クスクスと軽い笑い声が零れると共に、ギシリとベッドが重い音を立てて軋む。
顔を上げると、直ぐ間近に青年の顔が見えた。
「狙いは――そうだね。もしも、君だって言ったら?どうする?」
冗談めかした表情と声。
けれど此方を覗き込んで来る目だけは、いやに真剣な光を宿していた。
思わずその言葉を信じそうになってしまう程に。
「どうするも何も、もう疾うの昔にハルはミルフィオーレの人間になっています」
「うん、そういう意味じゃなくてね」
まぁ良いや、と白蘭は笑う。
相変わらず真意の見えない男だ。
ミルフィオーレの目的はハッキリしているというのに、この男の目的は未だに解らない。
通常はトップの目的が組織の目標となるものだが、ミルフィオーレは異なる派閥の者が組み合わされて出来たファミリーだ。
必ずしも、白蘭の目的とミルフィオーレファミリーのそれが同一だとは限らない。
「もう一回、する?」
「お好きにどうぞ」
白蘭の誘いに、ハルは投げやりに答えた。
大抵はこれで諦めてくれるのだが、今日はどうやらまだ満足していなかったらしい。
一度はベッドを下りた筈の足が、ハルの両脚を割って入って来る。
「それじゃ、お言葉に甘えて」
再び圧し掛かって来た身体に嫌悪の表情を見せる事も疲れてしまい、ハルもまたベッドの上へと横になった。
「ハルってさ」
「はい?」
「本当に、綱吉君が好きだよね」
唐突に何を言い出すのかと、ハルは呆れた顔で白蘭を見つめた。
行為の名残のせいか、僅かに潤んだ瞳が青年の細められた視線とぶつかる。
艶めいた唇が誘っている様にも見え、白蘭は柔らかな其処へキスを一つ落とす。
尤も、本人にその気はないのだろうが。
もういい加減にして欲しいと書いてある顔を見遣り、しかし下腹部へと下ろして行く手を止める事は無い。
多少惰性的ではあるが、もう一度あの快楽を味わいたいという欲求に逆らわず、白蘭はハルの素肌を指先で辿った。
「僕にこれだけ身体を許せるのも、彼への愛ゆえなのかな?」
「…貴方に話す必要があるとも思えませんが」
「ふぅん?」
スルリと膝裏を撫でられ、ハルの身体が硬直する。
微かに頭の芯が痺れ始め、意図せずして頬が紅潮してしまう。
最早馴染みとなってしまった予兆に、既に赤く色付いた唇から熱い吐息が吐き出された。
「綱吉君を救う方法、見つかった?」
「そ…なの、関係な……」
言葉が上手く紡げないもどかしさに、ハルは顔を背けて目を閉じる。
そのせいで余計に白蘭の言葉が脳裏に染み込んで来るが、彼の顔を見ながら話をするより余程マシだった。
「関係あるよ。今、君の立場はかなり微妙だからね。スパイと疑われて動けなくなったら、それこそお終いでしょ」
「……ぅ、…手、止め…」
「彼を助ける為だけに、今君は此処に居る。彼を救う為、たったそれだけの為に、僕に抱かれている。本当は嫌で嫌で仕方がないのに、それを我慢してまで君は僕と寝ているんだ。だからこそ心配してるんだよ。ハルちゃん?」
白蘭の余裕綽々の態度が恨めしい。
それに引き換え、自分はこの男の手によって良い様に狂わされている。
全く、何てザマだろう。
「…ぁ、余計な、お世話っ…です…ん、んぁ」
細長い指先が二本、無遠慮に体内へと侵入して来る。
先程まで幾度と無く白蘭の楔が挿入されていたせいで、濡れた秘所は容易くそれらを飲み込んで行った。
「強がる姿も良いね。―――君が本当に彼を救いたいと思っているのなら、良い方法があるよ。と言っても、恐らくそれ以外には無いだろうけど」
「…ぇ、?」
「知りたい?」
内壁を容赦無く擦り上げられ、背筋がビクビクと痙攣する。
思考が、視界が、脳内が、眼前が、段々と熱く熱く変化して、記憶さえもあやふやに溶かしてしまう。
何も考えられなくなる程にドロドロと、マグマの様に煮え滾る暗い光。
下肢からクチクチと粘着いた音が聞こえる毎に、それは段々と酷くなってハルを闇へと突き落とす。
「あ、ぁ…ぁ………」
綱吉を、救う方法。
自分が何をしているのか、何を考えているのか、それすらも解らなくなってしまった、哀れな哀れな愛しい人。
どうすれば守れるのか、ずっと考えていた。
自分はどうなっても良いだなんて自己犠牲をするつもりはなかったけれど、それしか方法が無いのならそれでも良いと、敵対する組織に身売りまでして考えた。
けれど状況は一向に良くならず、寧ろ悪くなる一方で、秘密を知る面々も追い詰められている最中。
その真っ只中の、答え。
それを、白蘭が持っている…?
蕩けた視線で、目と鼻の先にある唇の動きを見つめる。
快楽に沈んだ頭でも、白蘭の言葉はしっかりと耳に届いた。
どうやらそれだけ綱吉の名前の威力は大きいらしい。
「本当に、妬けるなぁ」
愉快そうな笑顔とは裏腹に、その目だけが凍て付く様な色をしていた事に、唇の動きだけを追い掛けていたハルには解らなかった。
瞬間、戯れに動いていた指先が、確かな意思を持って粘膜を強く抉る。
「ひぁっ」
一番弱い箇所への攻撃に、ハルは一気に絶頂を迎えて身体を大きく震わせた。
「まだだよ」
痙攣も治まらない内に指が引き抜かれ、代わりに熱く硬い塊が入り口を掠める。
ハルがその正体を認識する前に、白蘭は腰を押し進めて反論の言葉を奪う。
「僕を満足させられたら教えてあげるって言っても良いんだけど、余り苛めるのも可哀想だからヒントをひとつだけ」
「ゃう、ぅ…。まだ、動かな……あ、ぁ」
肉壁への圧迫感に息を吐く暇も無く律動が施され、ハルは髪を振り乱して咽び鳴く。
スプリングの軋み音と、耳を塞ぎたくなる様な嬌声。
その合間を縫って聞こえて来る白蘭の言葉を、何とか聞き取ろうとハルは涙で濡れた視界を開いた。
「簡単な事だよ」
大して呼吸も乱さず、白い男はハルを見下ろして告げる。
「君が木蓮にした事を、彼にもすれば良い」
ほらね、簡単デショ?
笑いながら放たれた言葉が、脳内へ深く刻み込まれる。
決して信用出来る相手ではないというのに、何故かその『答え』はすんなりとハルを納得させていた。
「あぁ…」
ハルの声が悲哀の色を帯びて、外へと吐き出される。
白蘭に言われるまでも無く解っていたのだ。
それが導く結末が怖くて、無意識に避け続けて来ただけなのだ。
綱吉の哀願を聞いたあの日から、恐らくはずっと。
「凄くイイね。その表情。ハル。君が、堪らなく欲しくなるよ」
「ん、く…ぁ。あ、あァッ」
穿つ速度を上げながら、白蘭の手がハルの頬を撫でてシーツへと落ちる。
激しい行為に耐え切れず、ハルは瞼を閉じて世界を闇に変えた。
浮かぶのは綱吉の顔。
そして、もう一つ。
壊れ行く自我が最後に映し出したのは、綱吉が尤も信頼する人間の姿だった。