移りにけりないたづらに








「…ぅっ、ん、あ、あ…」
どうしてこんな事になったのだろうと思う。
何度突かれても、身体から熱が逃げる事は無い。
「良い声してるんだから、もっと聞かせてよ」
グイと熱い塊を内へと捻じ込んだ男が、低い声で笑っている。
あぁ、意識が今にも飛んでしまいそうだ。
ぼぅっと霞む視界が、涙を滲ませて意識を更に混濁させて行く。
しかしそれは許さないとばかりに腕を急激に引っ張られ、半身を無理矢理に起こされる。
「ひ、ぁあっ…」
自分の体重が掛かったせいで結合部が深くなり、そのせいで強く奥壁を突き上げられた。
「ハル、そんな簡単に気を失っちゃ駄目だよ。つまんないでしょ。…あぁ、もしそうなったら、スパナ君の前で犯すから」
耳元で囁かれた言葉に目を見開く。
一人の名前が、ハルに深い衝撃を与えていた。
自然と、擦り上げられる内壁が過敏な反応を返し、男自身をきつく締め上げる。
「そんなに彼が好き?凄い締め上げ…」
クスクスと耳朶を擽る甘い笑い声に、けれどハルは返事をする事すら出来ない。
血が出る程に強く唇を噛み締め、ただただ襲い来る快楽と心の痛みに耐えるのみ。
「…ん、ぐ…ぅ、っ……」
「声、殺すなって言ってんのに…。仕方ないね」
ますます声を上げなくなった事が気に食わなかったのか、男はふと一息漏らすと片手を通信端末へと伸ばした。
「……?」
動きが止まった事で漸く唇を開放し、荒い呼吸をついていたハルは不審気に男を見上げる。
しっかりと開かれた両脚の根元には、未だ男自身が挿し込まれたままで、ろくに身動きが取れないものの、嫌な予感に顔を向けずにはいられなかった。
片手指で幾つかのボタンを押した後、部屋の中にコール音が響き渡る。
近くに設置されたスピーカーが、これが映像抜きの、音声のみの通信である事を告げていた。
「白蘭、さん…?」
一体誰に連絡を取っているのか、白蘭の薄ら笑いが不安感をますます増幅させる。
心臓が早鐘の如く鼓動を打ち始め、先程とは違う冷たい塊がゆっくりと背筋を這い降りて行く。
「もしもし」
何コールかの後、何処かだるそうな声がスピーカーから聞こえて来た。
「………っ」
悲鳴が喉を突いて飛び出そうになるのを寸での所で堪え、ハルは咄嗟に両手を口元へと当てて声を押し殺す。
「あぁ、スパナ君?ちょっと良いかな」
その様子を横目で眺めた白蘭の口元が、くっきりと深い笑みに形取られる。
「モスカの調整しているところだから、余り良くないけど……急ぎの用?」
「急いではないよ。ただちょっと聞いて欲しい音があってさ。モスカ弄りながらで良いから、聞いててくれる?」
「…?そのぐらいなら、出来るけど…」
怪訝そうな声と共に、スパナの声が途切れる。
恐らくは、言われた通りに音を拾おうと耳を済ませているのだろう。
「それじゃ、宜しくね。30分ぐらいで終わると思うから」
「!」
ジュブ、とわざと音を立てて白蘭が身を引く。
ハルの肩が盛大にビクリと跳ね上がった。
通信端末は既にベッドサイドのテーブルへと置かれており、スピーカーのランプは通話状態を示す色が点滅している。
「何処まで保つか見物だよ、ハル」
小声で囁かれた言葉に、ハルは歯を食い縛って耐える体勢に入った。
これから先、30分間は何があっても声を出してはいけない。
何をしているのかは解ってしまっても、白蘭の相手が自分だと、スパナに気付かれてはならない。
絶対に。
呻き声一つでも上げれば―――其処で終わりだ。
音が漏れ聞こえるぐらい強く歯を食い縛り、下肢を苛む快楽から無理矢理にでも意識を逸らそうと、頭をシーツへと深く押し付けた。
ぐん、と一層深く侵入してくる塊に、目の淵から涙が零れる。
快楽に慣れてしまった身体は、たった少しの衝撃でも鳴き声をあげてしまう様に彼に開発されていた。
「―――っ」
ハルの弱点を知り尽くしている白蘭にとって、彼女に声をあげさせるのは造作も無い事だ。
だからこそ強弱を付けて自身を擦れ合わせ、ハルがギリギリのところで耐えられる様に加減しておく。
簡単に決着がついては詰まらないとでも考えての事だろう。
ギシギシと軋むベッド音に、下肢から溢れる体液の摩擦音で聴覚が一杯になって行く。
波が、とても近い。
「……っ、……、………!」
血が止まる程にシーツを強く握り締める両手が、激しい痙攣を起こして震えている。
全身が粟立つ感覚に、白蘭の動きが加速してハルを責め苛んだ。
もう、いっその事、このまま呼吸が止まってしまえば良い。
そうすれば声を上げる事も、この男から与えられる快楽を感じる事も無くなるのに。
出来もしない妄想が、脳裏を駆け巡る。
ハルは顔を歪めて横向きになると、目の前でうねっているシーツの波へ噛み付いた。
引っ張られる布地が、キリキリと引き絞られて悲鳴を上げている。

あぁ、早く。
早く、終わって欲しい。

際限無く膨れ上がる白蘭自身に、ハルの内壁が限界を訴えて啼いていた。
「…、……ぁ、……――」
溜息にも似た喘ぎが微かに漏れ、それを境に激しい絶頂感が一気に下降して来る。
「――――!」
両脚を強張らせ、声も無く達した下肢が白蘭を締め付ける。
膣内を満たす欲望が震え、満足した証を吐き出す感覚に、ハルの意識は急速に遠退いて行った。
満足そうな表情を浮かべた白蘭の顔が、記憶に残った最後の光景。




書類を抱えた状態のまま、人気の少ない通路を足早に進んで行く。
時折擦れ違う白い制服の人物達に会釈する余裕も無く、ハルは何処か思いつめた表情で俯いていた。
しかし、それも白蘭の部屋へ続く廊下を曲がるまでの事。
廊下の壁に背を預け、片手にノートパソコンを抱えている青年を目にした瞬間、ハルの足は凍り付いた様に動かなくなってしまう。
「…あ、ハル」
直ぐに此方へと気付いた青年が、微かな笑顔を浮かべて歩み寄って来る。
「ス、パナさん…。ど、どうしたんですか?こんな所で、珍しいですね」
呂律の回りが怪しくなる口を叱咤し、懸命に言葉を選んで紡ぎ出す。
咄嗟に浮かべた笑顔が強張っていないかどうか、それだけが今のハルにとって重要な事だった。
「ん。ハルを待ってた」
「…え、ど…してですか?」
反射的に見開きそうになる目を、わざと細める事で何とか誤魔化す。
通路の蛍光灯を直視したかの様なハルの顔を、スパナはじっと覗き込む様に見下ろした。
「最近…何か、悩み事でもある?」
真っ直ぐに絡み合う視線が、真摯な光を帯びたままハルの目を射抜く。
まるで心の奥底まで見透かしてでもいるかの様なスパナの視線に、書類を抱きかかえる腕に自然と力が篭った。
「突然何言ってるんですか、スパナさん。大丈夫ですよ、ハルは何時もパワフルに過ごしてますから!」
「…そう?」
心臓がドクドクと高鳴っている。
嫌な脂汗が背中に滲んだ。
「はひ。…ちょっと上司が放浪癖有り過ぎて、最近は毎日多忙なんですけどね。もしかしたら、そのせいで疲れが出てしまってるのかもしれません」
心配を掛けないフリを装い、満面の笑みを作り出す。
どうか、気付かないで。
このまま、何も知らないままでいて。
ハルの笑顔に隠された影を見つける事は無かったのか、漸くスパナの顔に笑みが戻る。
「ん。なら良いんだ。…いや、余り良くもないけど」
スルリと伸びた片手が、ハルの頬を優しく撫でて行く。
「余り無理はしない様に。アンタが倒れたらと思うと、ウチも心配だし」
「はい、気をつけます」
「もし…」
「え?」
「もし、何かあったら――…相談しに来て。ウチは、その…ハルの恋人な訳だし」
気恥ずかしいのか、やや小声で呟くスパナのその姿に、ハルの笑顔が固まる。

泣きそうに、なった。

カチカチと、噛み合わさった歯が微かな音を立てる。
身体の芯から吹き荒れる情念が一気に喉へと駆け上がり、今にもそのまま口から外へと飛び出して行ってしまいそうだ。
頬に添えられたままのスパナの片手に自分の手を重ね、震える唇をゆっくりと開く。

スパナさん。
スパナさん、スパナさん。
ハルは…、ハルは―――。

「ハル、書類が落ちそうになってるよ」
クスクスと楽しそうな笑い声が前方から聞こえた途端、ハルの口から出掛けていた言葉は霧散した。
瞬時にして凍てついた様に動かなくなる唇に、ハルは愕然とした思いで書類へ視線を落とす。
片手を離したせいでバランスを失った書類が数枚、既に床上へと散らばっていた。
「す、すみません…白蘭さん」
慌ててスパナの手から身を引き、床上の書類を拾い上げる。
先程までの感傷は、一気に消し飛んでしまっていた。
新たに沸き起こったのは、震える事すら許されない恐怖。
「駄目だよ、スパナ君。ハルはまだ就業中なんだから。デートなら、仕事が終わってからにしないとね」
「あ、うん」
白蘭の揶揄に真面目に頷き返すと、スパナはハルへと向き直る。
「それじゃ、ハルまた後で…」
「ご、御免なさい。今日はまだ仕事が残ってて…その、終わるの真夜中になりそうなんです」
「…そっか。なら仕方ないな」
「御免なさい…」
俯いたまま顔を上げられずにいるハルの頭へ、スパナは軽く手を乗せてポンポンと優しく叩く。
「気にして無い。また暇な時、一緒にケーキでも食べよう」
「は、い」
普段は何よりも嬉しい筈のスパナの優しさが、労りの心が、しかし白蘭の前では全て鋭い刃へと形を変えてハルを傷付ける。
「………」
結局顔を上げる事無く白蘭の元へと駆け寄って行くハルの後姿を、スパナは何時もと変わらぬ表情で見送った。
「またね、スパナ君」
執務室に手を掛けたまま扉を開け放った白蘭が、笑顔でヒラヒラと手を振っている。
背中に痛い程突き刺さるスパナの視線から、逃げ出す様にしてハルは扉を潜った。
最早表情を取り繕う余裕も無く、背後で扉が閉まるなり、そのままズルズルと壁伝いにカーペットの上へと座り込む。
「ハル、気付かれちゃった?」
「…いいえ」
見上げずとも解る、嬉しそうな表情を浮かべているであろう相手に、ユラリと首を左右に振る。
「そうかな。スパナ君のさっきのあの目は……」
「いいえ!」
白蘭の言葉を無理に遮ると、ハルは両手に抱えた書類を床に投げ付けた。
バサリ、と白い羽の様に紙が宙へと舞い躍る。
「スパナさんには、何も話してませんし、気付かれてもいません!だから…だから、彼には何もしないで下さい」
お願いしますから、と声に出さずして続けられた言葉に、白蘭の目が薄っすらと細められる。
ヒラヒラとカーペットの上に着地した、書類の一枚を踏み付けてハルへ一歩近付くと、乾いた目が怯えた様に見返して来た。
「酷いなぁ。そんな顔しなくても、彼には何もしないよ」
片手を伸ばし、先刻スパナが触れた場所を優しく撫でる。
「ハルが今まで通り、僕の傍に居てくれるなら…ね」
嫌味なまでの柔らかい口調に、ハルはその手を振り払う事も出来ず、ただ静かに頷いた。







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