だからこそ
その日は何時もと様子が違いました。
どこがどうとは、上手く言えません。
ただ、違ったんです。
「ハル」
だから名前を呼ばれた時、とても嫌な予感がしました。
「はい」
緊張気味に答えた私に、ベルさんは言いました。
何時もと同じ顔で、何時もと同じ口調で。
「別れよっか」
思考停止。
一瞬何と言われたのか解りませんでした。
「はへ?」
だからこそ、気の抜けた返事をしてしまっても仕方ない事だと思います。
だってまさかベルさんが、私と別れたいと言い出すなんて思ってもみなかったのですから。
昨日まではごくごく普通に会話してたんですよ?
それが今日になって突然…。
信じろという方が無理があります。
「ベルさん…?」
「ごめんなー」
呑気な口調、呑気な笑顔。
前髪に隠された目は、相変わらず見えません。
けれど、本気で言ってるのだと解りました。
どうしてでしょう。
「そーいう訳だから。オレ、出てくわ。ハルは元気で」
ヒラヒラと手を振って、ベルさんはソファを飛び越えて行きました。
羽でもついているみたいに。
私がぼんやりとそれを見ている内に、金髪の王子様は玄関から出て行ってしまいました。
残された私は、呆然とそれを見送りました。
何の言葉も出て来ず、瞬きすらも出来ませんでした。
今まで二人一緒に過ごしてきた室内に一人残され、その静寂に突然涙腺が切れて溢れ出しました。
「ベル、さん…?ベルさん…ベル…」
涙を拭う事もなく、ただ彼の名を呼び続けていました。
壊れたお喋り人形の様に。
戻って来ない人の名を、ひたすら繰り返し呼び続けていました。
「末期ですね。恐らく後一ヶ月も保たないでしょう…」
年寄りの医者はオレにそう告げた。
何言ってんのかサッパリ解んねー。
保たないって何?
末期って?
「こんなになるまでよく放っておきましたね。痛みはなかったのですか?」
カルテをボールペンで突付きながら、医者はオレを見た。
「ぜーんぜん」
医者は溜息を吐きやがった。
何かムカツク。
殺してーと思ったけど、一応ヴァリアーお抱えの医者だから手は出せない。
「今までは何ともなくとも、そろそろ激しい痛みが出てくる頃でしょう。一応、薬はお出ししますが…強い薬になると思います。一種の麻薬みたいなものなので依存性が非常に高く、そして肉体に障害が出始めます」
医者は淡々と語った。
そこでやっと解った。
オレが一ヶ月もしない内に死ぬんだって事。
ショックがないと言えばウソになるけど、それ以上にハルの事が心配だった。
せっかく二人で暮らし始めたってのに、何てザマだ。
泣くだろな。
泣き虫だからな、アイツ。
「どーすっか」
正直に言えば、死ぬ間際までハルと一緒にいたい。
それがオレの本音。
だけど、ハルの泣き顔をずっと見てんのはヤダ。
ハルには笑ってて欲しいし、幸せでいて欲しい。
今まで他人の幸せなんて考えた事なんてないオレだけど、漸くそう願える相手が出来たんだし。
「あーぁ」
幸せにしてぇよ。
ハル。
こんなにもオマエが好きなのに。
「ハル」
片手で顔を覆うと、深く息を吐いた。
暗闇の中で浮かぶハルの顔が、滲んで揺らいだ。